幸福感
今朝は凍みましたね。次男と保育園まで歩いたら鼻の穴の中が凍りました。−10℃くらいになると鼻水も凍ります。
外の空気は冷たいけど、心の中には消えることのないあたたかい燈があります。
それは、幸福感。
幸福感って、なんだろう
それまでの人生で、これが幸福感だ!という実感は皆無でした。得体の知れないワードでした。
若い頃は、外側からもたらされる物を「幸せ」なのだとして生きていたものです。例えば持ち物とか、実績とか、何かのスキルとか。
あとは、嬉しいとか、美味しいとか、楽しい=幸せ。という事として定義付けていたなぁ。
それがある時、「色々な活動してて素敵なお家に住んでいて賢い子どもが2人いて実家が近くて容姿も良くて、幸せだね」という言葉をもらって、とても違和感を感じたのです。
だって当時の私、自分のことが大大大っ嫌い。
自分が幸せだなんてちっとも感じていなかったのですよ。
でも今はハッキリ言えます。
幸福感ってね、あたたかい光のようなもの。
自分に対して嘘がない。本来の自分である。
そうなると光が発生するらしいんだよ。
私の場合は色々と本来の自分に嘘をついて生きてきた(いる)のですけど、
その無自覚の大嘘に気付いてしまった時があるのです。
暴いちゃった一世一代の嘘
ある日突然ですよ。
気付いちゃったのです。
私、
出来事でも、世の中でも、人でも、何でも
評価してジャッジしなければならないと思ってると。
昨今、「ラベリングしたりジャッジすることはよろしくない」とそこら中で言われており、私もものすごく納得して頷いておりました。
さらには周りの人から「さやかちゃんはジャッジしたりラベリングしないね」ってよく言われておりました。
ですがよ。
なんか…なんか…まだどこかで「ジャッジしなきゃ」と思っている気がする。
(自分の感覚って大事ですよ)
そしたらものすごーく心の奥底の方から
評価したりジャッジできないといい人間になれない
って聴こえてきたのです( ;∀;)衝撃でした。
なんで…⁉︎と自分に聞いてみました。
そしたら出てきましたのは、私の母。
母は「あれはおかしい」「あれは間違っている」とハッキリモノを言う人だったのですね。
幼い私は、何がおかしいのか、何が間違っているのかさっぱり分からなかったのですよ( ;∀;)
だが。しかし。
ジャッジしないと、評価しないと、おかしいことに気が付けないと、いい大人になれない。いい人間になれない。
いい人間になれないとお母さんに愛してもらえない。←生存本能
と、無意識の生存本能のもと、それをやり始めたんですね。
小学生くらいになると輪郭がハッキリしてきたのを覚えています。
とにかく大量の知識を詰め込んで、世界を「善と悪」に分類しました。
必然的に簡単な二元論に落ち着きました。
どうしてもおかしい!とは感じない事柄には世間一般の常識を適用して、おかしい!と言っていました。
正義、権利、自由、利益、被害、、、
漢字2文字の言葉はとても便利なものでした。
環境問題や社会問題は、私にとって格好の獲物でしたね。
何か評価しなければ、何かコメントしなければ、何か意見を言わなくては…
だいぶ必死でした。
もともと自分の中から湧き出て来ないものを捻出しなければならないのですから。
そんな風に若い頃を生きてきましたが、気を抜くと本来の自分が溢れて漏れ出ていました。
そこを見てくれた人たちが「さやかちゃんはジャッジしないよね」って言ってくれていたのですね。
じゃあ、本来の私って??
何が善で何が悪かさっぱり分からない(゚∀゚)
何が間違っているのかさっぱり分からない(゚∀゚)
何が問題なのかさっぱり分からない(゚∀゚)
母が「おかしい」と言った出来事(例えば嫁姑問題)は、母から見たものと祖母から見たものが違うだけ。幼い私にはその様に見えていたのですね。
一つの出来事でもどこの角度から見るかで、見え方が違いますよね。
つまり本来の私は
善も悪もない
良いも悪いもない
もっと言うと
誰も間違っていない
何も問題ではない
だったのです。
ただただそこにあったのは
苦しそうなお母さんを見ると悲しい
お母さんに幸せになってほしい
いい人間になってお母さんを幸せにしたい
だったのです。
何が辛かったのか?
自分が大嫌いだったんですよ。
ジャッジできない自分は足りない人間だと感じて、自分を責めて、自分で自分を傷付けていたんですね。
本来はしなくていい事(ジャッジ)をして、自分を粗末にしていたんですね。
これまで本来の自分に嘘をついてきた。
それを自分で気付いて、受け入れてあげられた。
自分で自分を愛しむことができたのです。
※こう文章にサラサラ〜っと書くと、あたかも最初から分かっていたような感じがしますが…とんでもない下の方の無意識にあったんですよ。
これが幸福感か…!
本来の自分を愛しんだとき、体中が何かに包まれていったんです。あたたかくて、嬉しくて、心地よい光みたいなものに。
それは私の中心から湧き出してきて、私の体を包んで、家全体を包んで、長野県全体を包んで、世界を包んでいくような感覚でした。
幸福感 という文字が浮かび上がりました。
あの時の大きな光は小さな燈みたいになって、いつも胸の中にあるのですよ。消えないの。不思議。
あれからのこと。
自分に嘘がない、本当の自分で生きるのが幸せなのだと実感しましたので、自分の嘘を暴く(と表現すると過激だけど)ことが楽しくて嬉しくてたまらない日々です。
不都合な出来事や感情もウェルカムです。
そうだったのか〜!と自分を分かるたびに、幸せの光で包まれ、心の燈は増えていきます。