『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』|映画鑑賞日記
劇場で観る予定はなかったが、誰かに誘われて観に行くことになる作品が、最近は多い気がする。
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』も、その1つ。
三連休の最終日、家族に誘われて観に行ってきた。
※ 1作目があまり好きではない者の感想ですので、ご容赦ください。 ※
あらすじ
観に行くつもりがなかった理由
前作の『ジョーカー』は劇場へ足を運んでいた。とても楽しみにしていた映画だった。
ただ、観終わった私の心情は、怒りの感情でいっぱいだった。
正直、好きな作品ではない。だから、2作目を観に行くつもりはなかった。
まず、解釈違いだった。私が想像していた(今まで見てきて期待していた)ジョーカー像ではなかった。
また、アーサーという人間を、単に好きになれなかった。彼自身をちゃんと見てくれる人や手を差し伸べてくれる人を無視して、自分が一番の弱者だと言わんばかりの幼稚さに腹が立った。
そして、その鬱憤をまったく関係のない者たちにまで押し付けて殺人事件を起こす、その不条理な思考回路が理解できなかった。
一方で、観ている人間に対してこういった感情を抱かせるということは、現代社会が生み出した悪役を描いた作品としては成功しているのかもしれない、とも思っていた。
とても上から目線の感想で申し訳ないが、そのくらい苛立ちながら劇場を後にしたことを覚えている。
まぁ、私自身も元被虐待児であるが故に、彼を許せなかった、という可能性はあるが……。
私の中で、前作の評価が地に落ちた瞬間
しかし、驚いたことに、前作は人々から非常に評価された。
「自分も彼と同じだ」という感想を抱く人が多く生まれ、まるで、弱者に寄り添う映画としての評価を受けているように見えた。
それらの感想を見た結果、私の中で、前作に対する評価は地に落ちた。
受け取り手たる観客が、彼を悪役ではなく、まるでカリスマ的存在――ダークヒーローのような――のように扱ってしまうのなら、この映画は失敗作だったのではないか。
そんな存在は、はたして“ジョーカー”なのか?
さらに、彼を模倣して犯罪が起こるようでは、世に出すべきものではなかったのではなかろうか。
そんなことを思ってしまい、今度は悲しくなった。
世間の評価が高かろうと、私の中で『ジョーカー』という作品は、前作の熱狂的ファンたちの登場により、完全に殺されてしまった。
※ 以下、ネタバレがあります。 ※
今作の衝撃のラスト
そんなことを思っていたため、今作のラストには本当に驚いた。
もともと、“ジョーカー”という人格は、アーサー自身の人格と違わなかったのだろうと思う。
しかし、ハーレーや熱狂的なファンに求められ、彼は“ジョーカー”という人格が自身から切り離されていくように感じ始める。
本当に自分だったはずの“ジョーカー”という存在を、演じるようになってしまう。
彼を助けようとしてくれる医者や弁護士を捨ておいて――。この場面は、性格が変わっていなくて、「やっぱり、私はこいつ嫌いだわ」と再認識させてくれた。
ミュージカル調の夢の世界と、色彩のない現実とを行き来しながら、本当の自分とは何なのか、現実とは何か、アーサーは何度も問われる。
華々しい夢の世界と異なり、現実の世界は非常に退屈で、辛く、つまらない。刺激もない。まるで、アーサーが犯したことの先にあることや、アーサーという人間そのものが退屈でるかのように。
夢の世界から戻った後は、現実の世界に打ちのめされるが、そんなアーサーに対して、人々は否応なく“ジョーカー”を求める。
結果、アーサーは「ジョーカーはいない」と述べる。
すると、あれだけ自分を熱烈に求めてくれていたはずのハーレーは去ってしまう。
逃げ出したアーサーの手助けをしようとする者(ファン)は、アーサーではなく彼の中に“ジョーカー”を期待している。そんなファンからも逃げようとする彼を、ジョーカーのコスプレをしたファンが追いかける場面は、とても皮肉めいていた。
結局、彼は現実から逃げることはできず、刑務所に戻される。
ラストシーンの直前、ハーレーすら去ってしまった彼のもとに、面会人が訪れる。
「え、まだ彼を見捨てていない人がいるの!? 誰!?」
と思い、面会のシーンを期待したが、その面会が果たされることはなかった。
アーサーは、彼の熱狂的なファン(受刑者)に殺されてしまう。
私は本当にびっくりして、鳥肌が立った。
この幕引きは、あまりにもすごすぎる。
1作目を観ていただけでなく、それに対する社会の反応を見ていたからこそ、あまりにも刺さりすぎる終わり方だった。
私が今作を受け入れられた理由
2作目については、日本公開が始まる前から、海外レビューの荒れ模様が話題となっていた。
確かに、今作の評価は割れると思う。
ただ、1作目のファンだけが2作目で「ジョーカーはいない」ことに冷や水を浴びせられたかと言えば、そうとも言えないように思う。
なにせ、1作目が嫌いな私でさえ、「ジョーカーはいない」という言葉が刺さったからだ。
私も、自分が理想とする“ジョーカー像”を抱いていた。それが1作目で打ち砕かれたことに、ショックを受け、このシリーズにおける“ジョーカー”を受け入れられなかった。
1作目のジョーカーを好ましく思っていたファンと、形は違えど、同じように幻想を抱いていたのだ。私自身も、きちんと1作品目に向き合えていたのか、自信がなくなった。
ごめんね、アーサー。
でも、私は、1作目のときから“ジョーカー”としてではなく、“アーサー”として、あなたのことが嫌いです。
ちゃんと現実を見ろ! そして、差し伸べられた手を取れよ、まじで!