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#344 富岡製糸場はなぜ群馬県につくられた?
1872年に群馬県の富岡に建てられた富岡製糸場。
質の高い生糸を大量生産する方法を広めるための官営模範工場として明治日本の殖産興業に大きく貢献した。
民間に払い下げされるなど、運営主体を変えながら、1987年までの115年間操業し続け、日本の製糸業を支えていた。
2013年に世界文化遺産に登録されたことで、近年注目を集めている。
では、富岡製糸場はなぜ群馬県に建てられたのか。
政府は生糸の原料となる蚕の生産がさかんな長野県、埼玉県、群馬県を候補にあげたが、富岡に決定した理由は次の通り。
1.富岡付近は養蚕が盛んで、生糸の原料である良質な繭が確保できる。
2.工場建設に必要な広い土地が用意できる。
3.製糸に必要な水が既存の用水を使って確保できる。
4.蒸気機関の燃料である石炭が近くの高崎・吉井で採れる。
5.外国人指導の工場建設に対して地元の人たちの同意が得られた。
「4」は意外かもしれない。
現在の化石燃料のほとんどを輸入に頼る日本からは想像がつかないかもしれないが、かつての日本は石炭の採掘がさかんだった。
高崎炭田も、良質な石炭が採れることで有名な炭田だった。
富岡製糸場ができたのは、1872年。
ちょうど新橋-横浜間に日本で初めての鉄道が開通した年だ。
もちろん高速道路なんてものもない当時、富岡製糸場でつくられた生糸はどのようにして輸出されたのか。
当初は、利根川の水運を使って江戸を経由して横浜まで運ばれ、輸出された。
次第に鉄道が整備されていき、1885年には赤羽、品川を経由して横浜に到達するルートが開通し、1934年には八高線が開通して八王子経由で高崎-横浜間が別ルートでつながった。
内陸部だった富岡も、陸路・水路で横浜とつながっていたのである。
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【参考】