#236 太平洋戦争開戦のきっかけとなった「ノモンハン事件」とは?
1941年に日本とソ連は日ソ中立条約を結び、1945年8月9日にソ連が対日参戦するまで、日本とソ連は戦火を交えることはなかった。
しかし、中立条約締結の2年前、1939年に日本とソ連は大規模な武力衝突をしている。満州国とモンゴルの国境で起きた「ノモンハン事件」である。
1932年、日本が満州国を建国した。満州国とソ連・モンゴルは国境を接しているため、日本とソ連・モンゴルが直接国境を接するようになったと言える。
1936年に日中戦争が始まり各地での戦いが激しくなるなか、ソ連・モンゴルとの国境付近ではしばしば国境紛争が勃発した。
中でも大きな軍事衝突となったのが、満州国東端の張鼓峰(ちょうこほう)地域で起きた国境紛争である。
威力偵察を行った日本軍は、戦車・飛行機などで機械化されたソ連軍に大打撃を受け、日露戦争以来の日本とソ連の戦争は日本の大敗に終わった。
本来ならば張鼓峰の敗北から当時のソ連と戦うことが無謀であると学ばなければならなかったのだが、日本軍は敗北の原因を張鼓峰で戦った朝鮮駐留軍の消極性であると精神論で片付けてしまう。
1939年5月、今度はモンゴル国境のハルハ河付近で、モンゴル軍との武力衝突が発生。
ソ連軍がモンゴル軍に加勢し、両者の戦力は拡大し続け、最終的に投入された戦力はおよそ日本軍6万、ソ連軍7万の大規模な戦闘となり、日本軍の死者はおよそ8000人、ソ連軍はおよそ1万人という両軍多大な犠牲を被ることとなった。
激しい戦闘が行われている最中、日本に想定外のニュースが飛び込んでくる。8月にドイツとソ連が独ソ不可侵条約を結んだのだ。当時、日本とドイツは日独防共協定を結んでおり、東西からソ連をけん制する関係になった。ドイツとソ連が手を結べば、ソ連は東の日本に戦力を一極集中できることになる。
国際情勢の変化もあり、日本はソ連に停戦を申し入れ、9月に停戦が成立する。両者痛み分けの戦闘だったとはいえ、ソ連の軍事力を思い知った日本は中国北部やソ連に侵攻する「北進論」を諦め、東南アジアや太平洋の島々に侵攻する「南進論」を推し進めることとなった。
2年後の1941年、ソ連との間で日ソ中立条約を結んで北方の安全を確保した日本は、12月に真珠湾攻撃・マレー半島上陸作戦を行い、太平洋戦争の火ぶたを切ることとなる。
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