制約の中で新たなことを
ゴールデンウイークに引き続き、故郷岩手の偉人についての本を読んだり、考えたりしている。宮沢賢治を主人公に起用した小説『謎ニモマケズ』(鳴神響一著)には驚かされた。花巻の正教会で、賢治がロシア語を教わっていた司祭が殺害された事件を発端に様々な事件が連鎖する。司祭殺害の犯人を目撃した賢治は、知らぬ間に国際的な謀略の渦中に巻き込まれていくことになる。
この物語の主要な舞台は岩手県の遠野。大正時代の遠野だ。そこで国際的な謀略が展開する、って自分で書いていても「そんなことありえないでしょう」と突っ込みたくなるが、この小説ではそれを成立させている。しかも宮沢賢治を主役にして。もうひとつ「そんなことありえないでしょう」を追加したい。銃弾をかいくぐる宮沢賢治とか、誘拐された某国の公爵令嬢救出に挑む宮沢賢治とか、およそ従来の宮沢賢治のイメージからは遠い姿が描かれている。まるでルパン三世の長編アニメのようだ。まさか宮沢賢治が主役の冒険小説が成立するとは思いもしなかった。しかも舞台が遠野の山中で。
この小説では「なんでそんなことが起きる?」という事態が次々に起きる。しかしそれも作中で当時の国際情勢を説明されたり、登場人物たちの経歴を説明されたりすると、「ほぼありえないだろうけど、絶対にありえないわけではないかもしれない」となんとなく納得してしまう。
言うまでもなくこれはフィクションで、壮大な(よい意味での)ほら話だが、不思議な説得力がある。作者の剛腕ぶりもすごい。「なんでそんなことが起きる?」との疑問に追い立てられるようにページをめくり続けているうちに、気付いたら物語はもう終盤だった。
『遠野物語』の著者である民俗学者の柳田国男や、柳田の『遠野物語』執筆に協力した遠野の文学者・佐々木喜善など実在の著名人も登場する。賢治は実際に喜善と交流があったらしく、そうした史実も説得力に一役買っている。また国際的な謀略を描きつつも、遠野や岩手の風土や特色が物語にふんだんに取り入れられており、次第に冒険小説の主人公が宮沢賢治であることに違和感がなくなってくる。舞台が遠野で賢治が主役であることに必然性があるような気がしてくる。びっくりだ。
この週末は久しぶりに人と会わず、LINEの連絡もあまり取らず、自室でのんびりと過ごした。新型コロナウイルスの感染拡大によって、オフラインの場で人に会うことのハードルが跳ね上がってもう1年ほど経つ。しっかり対策していれば、そこまで警戒しなくてもよいのかもしれない。とはいえ現実問題として、今後もしばらくこの状況は続くだろう。
徒歩圏内に複数の友人が暮らしていることもあり、週に1度くらいは仕事以外でもオフラインで友人らに会っている。それでもなぜか、「人に会ってないな」という感慨がわいてくる。コロナ禍での生活が長くなり、「人に会ってない」感が実際以上に増幅されているのかもしれない。
昨年1年間はコロナ禍で生活が大きく変わり、それに伴って行動に様々な制約が生まれた。人に会いづらいこともそうだし、旅に出かけにくいこともそうだし、仕事の進め方もそうだ。ただ、それを言い訳にしていたところも少なからずあった。コロナ禍により始めるハードルが上がったため、先送りにした「やりたかったこと」がいくつかある。
今年は昨年先送りにしてしまったものを始める年にしたい。昨年1年間を無駄にしたとは全く思わない。この環境ならではの新しい出会いもあったし、この環境ならではの仕事、活動もできた。しかしコロナ禍を言い訳にしてさらに1年、やりたいことを先送りにするのはもったいない。時間は有限だ。
依然としてコロナ禍の終わりは見通せない。引き続き感染対策に配慮する必要はある。行動に制約もある。しかし制約があってもできることはある。大正時代の遠野を舞台にした宮沢賢治が主役の冒険小説が成立するくらいだ。現代の東京にいれば、やりようはいくらでも考えられる。
明日、ひとつ新しいことが始まる。始まってそのあとどうなるか、正直予想しにくいが、まずは全力でやってみよう。一歩踏み出したあとにわかることも、たくさんあるはずだ。