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なぜ働いていると本が読めなくなるのか

働きながら本が読める社会。
それは、半身社会を生きることに、ほかならない。

本書p264

本書は書店員が選ぶノンフィクション大賞2024受賞作品である。著者の三宅香帆さんは文芸評論家でこれまで、何冊か出されていてデビュー作ではないみたい。

 自分もよく本を読む方ので、タイトルに惹かれて手に取った。タイトルにあるように仕事のせいで本が読めなかったという体験があるわけではないが、パラパラめくって面白そうだと思って購入した。実際とても面白く読みやすいため1日で読み切ってしまった。
 本書はまず「読書」というものが明治時代から現代にかけてどのような行為として認識されてきたのかを紐解いていく。意外と見落としがちであるが「読書」は当然時代によって意味あいが異なってくる。出版されている本も、本へのアクセスのしやすさなども時代によって大きく異なるためである。(そもそも字が読める人の割合が異なる)著者が簡潔にまとめてくれていることをさらに大雑把に言うと、明治時代がエリートの教養という位置づけであったところから大正時代がエリート&大衆の教養となり、戦後になると娯楽となり、現代はノイズ(使えない情報が入っている)ものとなっていったと指摘している。

 特に面白いと思ったのは現代(2000年代以降)の読書をノイズと説明していることである。この背景には新自由主義の導入による自己責任の時代の到来の影響を指摘している。つまり個人として競争して生き残っていかなければならないため、読書を含めたあらゆる行為に役に立つこと(コスパ)を求めた結果、あまり役に立たない、すぐに必要な情報にたどり着けない、気晴らしとしても面白くなるまで時間のかかりコスパが悪い読書は「ノイズ」であると判断されたとしている。
 よく読書に離れについて活字離れと表現されることがあるが、ちょっと考えてみてもネットやメールなどかなり大量の活字に触れているので、活字離れとはいいがたく、的を得ていると感じた。

 本書の一番の主張は冒頭引用にあるように「半身社会」の提唱である。「半身社会」とは仕事にせよ家事育児、趣味にせよ「全身全霊」でコミットするのではなくほどほどにで取り組む社会である。全身社会ではコミットするもの以外の様々な要素を置き去りにしてしまう。その結果生じるのが燃え尽き症候群という一種の精神的疾患である。燃え尽き症候群は最終的に鬱病や自殺に結び付く可能性がある疾患である。極度にのめり込むことで極度に疲れがたまり、それが精神に異常をきたすものである。この疲れを軽減させる方法は当然休むことである。半身社会は「休む」ことを無駄と考えない社会であるといえるかもしれない。これには全面的に賛成である。
 
 ただ一方で、特に労働について、「半身社会」を生きることは可能なのかという問いも浮かんでくる。半身というキーワードも元の出展は上野千鶴子教授の言葉だそうである。著者は上野教授によれば全身で働く男性に対し女性の働き方は半身であったと紹介している。ではこの全身か半身かは自由に選べるのだろうか。出展元から推察するに全身よりも半身の働き方のほうが優れているのであろう。ならばなぜ男性が全身を、女性がより優れた半身を選択できたのか。
 理由は単純で全身の男性が経済的に女性を支えているからである。適当に検索すれば出てくるが男性のほうが労働時間が長く、フルタイムで働く人の割合も高い。ただ女性は結婚を機に家事を担うことになるため短くなってしまう可能性が多分にあるが、その解消に向けて育児休業が、そもそもの就業内容を平等にするため雇用機会均等が導入された。M字カーブもほぼ解消された。だが労働時間についてはそれほど変化はない。当然だが長く働く人のほうが所得が高く、婚姻率も高くなるので男性が高所得長時間労働、女性が低所得短時間労働(家事労働)の関係性へどうしても向かって行ってしまう。

 半身社会は確かに素晴らしいものである。ただ半身社会を生きるのはとても難しい。単純に金がないからだ。半身社会は短時間労働だが低所得の世界である。半身社会を生きるにはスポンサーが必要となり、それは全身社会の者であろう。そのような持ちつ持たれつの関係性をご都合主義で切り取ったものになってはいないだろうか。
 
 提言自体は全面的に賛成した。ただ半身社会はもしかしたら社会の半分しかみていない発想ではないかとも考えてしまった。ちょっと批判的になってしまったが本書は「読書」という行為について見落としている様々なことを教えてくれる素晴らしい一冊である。ぜひ読書をする人もしない人も読んでもらいたい。(著者名をYouTubeで調べると本書に関する動画が上がっているのでそれもとっかかりとなると思う)
 
 

 

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