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プロレゴーメナ

18世紀から19世紀かけて活躍したドイツの哲学者イマニュエル・カントの著作。プロレゴーメナとはドイツ語でProlegomenaと書き、意味は序文というそうだ。本書の正式な名称は「学として現れるであろうあらゆる将来の形而上学のための序文」らしい。カントの代表作である「純粋理性批判」が多く人にあまりわかってもらえなかったためその要約版として出版したもの。要約版だが十分難解である・・・。ただカントの哲学とは何かを体験しようと思ったら一番手に取りやすいと思う。まぁこれしか読んでないけど要約版だしそうでしょう・・。

 カントは大陸合理論とイギリス経験論の統合に成功したといわれている。大陸合理論は「われ思うゆえにわれあり」のように考えている私というものは実体として存在していると考える。一方イギリス経験論は私というものは人間は感覚器官からの刺激(経験)を通じて生きているので私というものは実体としてく各刺激の集合体と考える。さてどっちが正しいのか。カントは確かに人間は感覚器官を通じて物をとらえるけど、それは本当にその物自体かどうかわかりえない、つまり自分の感覚器官ととらえた現象としてか認識できないとし、イギリス経験論的な発想をとる。一方で現象をとらえる中にも物自体をとらえる中で刺激に対する処理とは別に機能しているものがあってこれは感覚器官に基づかない(=経験に先行して)機能でこれは実体として存在する(経験のない理性=純粋理性)としている。純粋理性に入るものとして空間や時間の認識、経験を整理する能力(悟性)、そして経験によらない概念、純粋理性概念があるとした。
 そしてこの純粋理性概念に入る事柄を私(魂)、宇宙論、神学としてこれらのものは経験的なものを処理するための枠組み(空間や時間、悟性)に基づいて検討しても、現象を処理するための能力なので、純粋理性概念については単に独りよがりの想像にしかならない、とした。
 本書の正式名称では形而上学のためとあるが、実質は学としての形而上学にとどめを刺したものである。また神学は生き残ってはいるが宗教学へ、魂は心理学へそれぞれとって変わられていったと思う。そういう意味ではカントによって近代啓蒙思想は完成したといえると思う。

 興味深いのは純粋理性概念についてじゃあ理性はなぜそんなことを考えるのかについても考察をしており、それは唯物論(人間は物質の塊でしかない)や自然論(自然の根本的な原理は決してわからない)宿命論(人間の自由の否定)に対して抵抗するためであるとしていることである。
 これらは確かに現代、魂や神が否定された時代、においても例えばすべて遺伝(タンパク質の配列)で考えたり、極端な自然主義で科学を否定して原始的な生活を礼賛する人たちがいるのを見ると、カントの指摘は全くその通りである。カントは迷信的なものをすべてなぎ倒したと思う。ただそのあとにそれに代わるもの(人はなぜ生きるのか)を近代人が探さなければならないことを運命づけたともいえる。

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