昭和20年代のこども
昭和20年東京地図(文:西井、写真:平嶋)筑摩書房(表紙写真)は、私の愛読書の一つ。まんが「三丁目の夕日」西岸良平にも昭和20年代の光景がでてくる。私の見た美しい夕焼けの光景も懐かしく思い出されます。この時代に子供だった方々が、今思い出すのはそれぞれに違う光景でありましょう。
正直なところ、学校給食(メニュー素材は地獄でした)も、銭湯(優雅なものではありません)も私は大嫌いでした。一寸、街角を曲ったとたんに、帰れなくなってしまう怖い夢を時々見ました。新宿の街も浮浪児がたくさんいました。ガード下には、傷痍軍人がアコーディオン(手風琴と呼んだ方が適当でしょう)を弾いていて、母とデパートに行くとき、通りながら私が洗面器にお金を入れるのが常でした。三越の食堂でクリームソーダを飲み、屋上から下の通りを見る。小学校の国語の教科書にのっていた“コペル君の日記”というのがとても印象に残っています。コペル君がデパートの屋上から下の通りを見て、人間が分子のようだと実感するーこの場面が私の体験に重なったからでしょうーとても印象深く記憶に残っていました。コペル君の日記の出典が、吉野源三郎の“君たちはどう生きるか”だということがわかったのは、ずっと後の大学生の頃で、偶然聞いていたNKHの朗読の時間に、雨の日のデパートの屋上のあの場面が放送されていたのであります。小学5、6年生の時の担任のT先生は、私の日記に毎日感想や考えを書き込んでくれました。先生の赤いペンで書いた文章の方が、私が書いた部分より長いくらいです。今でもそのノート2冊は私の宝物であります。このようなことも,コペル君の日記に親近感をもった理由だろうと思います。
知らぬが仏の弊害
昭和20年代の子供は、町内に種々の生産現場を見聞できた。近くに田んぼも畑もあったし,庭で野菜も栽培し、鶏も飼った。レンズの清浄に使うエーテルやトリクレンの匂いがした。隣の畳屋さんは、天井から吊るしたヤカンから口に水を含みプッーと霧をはく。商店街の豆腐や、肉やのコロッケ…、溶接作業、鋳掛けや、石焼いもや、いろいろなものをそばで見ることができ、見ているだけでやり方が大体わかります。香具師の口上は面白い、大蛇を見せる見せるといいながらとうとう見せず,薬を売り始めるまでのプロセスを確認するために半日見ていたこともあります。
廃棄物処理に関しては、し尿処理の汲み取りやさんも来たし、生ゴミは庭に穴を掘って埋めた。これに引き換え、現在の都会は消費だけの町です。生産は見えないところで行われ、物品は運ばれて来る。廃棄物処理も、見えないところでなされる。つまり、自分の目の届かないところに行ってしまえば、何事も知らん顔ができる。下請けの責任逃れの構造がそこにある。鶏が殺され肉になる所を見なくても、スーパーで肉を手に入れることができる。
自分で手を下さぬ下請けの構造が、環境汚染を進めている。役人や官僚の忖度という仕組みのせいにして,自分は口を拭っている無責任の政治も同様の構造です.