『ちるとしふと』雲の向こうからいつも月は見ている。塩谷風月の語るまでもない事柄。2
玄関のドアをひらけば吹いてくる風のことです春というのは
『ちるとしふと』千原こはぎ
書肆侃侃房 新鋭短歌シリーズ39
本文を書き出す前に。
僕は「作中主体」という言葉が嫌いだ。しかし「作者」と呼ぶのも少し違う。この歌集は、一見、作者と作品との距離がゼロで、密接に繋がっているように見える。しかし、歌集というもの(もっと言えば歌というもの)は、意志と意図を持って「構築された創作物」である。
いくら剥き出しの感情をそのまま書き連ねたように見えても、それは冷静に構成された創作である。その創作の中の主人公を、僕は「彼女」と呼ぶことにする。
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チルトシフトとは、カメラの加工技術のひとつで、実際の街の景色を小さなおもちゃの街のように加工できるもの。これをタイトルにしたとき、歌集の景色は、現実と架空という二重のベールを纏う。
ひらがなに開かれたタイトル、そして、おもちゃの街という言葉からは、「幼い」「明るい」「楽しい」「ひと時の夢」というイメージ(そしてその裏には、真反対の陰のイメージが微かに潜む)が零れ落ち、それはそのまま歌集全体のイメージとなって通底する。
歌群を見てみよう。
玄関のドアをひらけば吹いてくる風のことです春というのは
巻頭歌。この風は、ここからこの歌集全体に、やわらかく吹くことになる。しあわせなとき、苦しみのとき、哀しみのとき。それらの感情の起伏をすべて飲み込んでこの風は、やわらかく吹く。それを、その風を、作者は慈しんでいる。
歌集における巻頭歌というものは、歌集への入り口であり、歌集全体のカラーの宣言でもある。しかも、この歌の配置は特殊で、歌集の中で唯一副題の付かない、ある意味、歌群の外側に独立して置かれた歌である。以後の歌たちは、否応なくこの歌から照射された光や闇を纏うこととなる。
一読、さわやかな春の歌だ。だが、それだけではない。ドアを開けばという言葉により(そして、この後、ドアという言葉はさまざまな歌で頻出する、この歌集のひとつの重要なキーワードである)、内側と外側という二者が現れ、春は外側からやってくる。作者は(風の無い停滞した)心の扉を開き、自らの意思で、風を内側へと受け入れる。明るくやわらかい春の風。そこにはほのかな季節(移り変わるもの)への期待、そして、(移り変わってしまうもの)への微かな寂しさもあるのかも知れない。
背伸びしてすべての窓にカーテンを掛けて始まるひとりの春は
何気ない動作。だが、背伸びして、とは、心のことかも知れない。また、自分より身長の高い誰かの喪失、というイメージも見える気がする。カーテンは外から内を隠すもの。だが壁のように硬質の拒絶ではない。やわらかな光を通し、彼女の意思、彼女自身の手でいつでも開くことができる。
存在をときどき確かめたくなって深夜ひとりで立つ自動ドア
誰でも自動ドアの前に立てば、ドアは開く。だが、ごくたまに、反応が悪くて開かないときもある。そういうとき、人は苛立ったり、不安だったりする。本当にここに、自分は存在しているのだろうか。していないわけが無いのだけれど、あらゆる理屈を超えて、かすかな不安は胸に咲く。
ドアとは、入る、または出るための道具だが、この歌では、存在の証明システムとしてだけ、機能する。開いたとしても、その先に進むという行為は、この歌では無い。彼女は立ち尽くす。そのドアは開いたのだろうか。
深夜、ひっそりとひとりで立つ影を、見ているものは誰もいない。どこまでも内面に落ちてゆく入り口のようにも思う。
ともだちであると確認した夜にうっかりキスを一度だけした
なにひとつ揺れないキスをするような大人になると思わなかった
関係を「ともだち」と規定された(あえてひらがなで表現されることで、意味は無機質に記号化されてゆく)。そうなる前に、作者はどんな関係を望んでいたのか。淡い(あるいは切実な)期待だったのか。それとも言葉に出来ないどちらとも言えない揺れだったのか。その想いが(うっかり)一滴零れた瞬間の真実。そこにあるのは、寂しさであり、哀しみであり、後悔なのかも知れない。
キスをするということは、二種類あって、ひとつは恋人への気持ちの表現であり、もうひとつは性的な意味合いである。(心も身体も)揺れないキスは、恋人同士の熱く流れる時間とは対極の、停滞した無機質なものである。一首目と二首目とは隣り合う歌だが、章が違う。二首目は一首目と同じ景色を別の角度(別の時間)で表したものなのか。あるいは、まったく別のものなのか。
すべてから置き去りにされているような心地してたぶんありふれている
自分ひとりが世界から置き去りにされているような空虚な孤独感。しかしそれは、彼女を置き去りにしたはずの世界の多くの人にとっても共通する、ありふれた感情なのだ。孤独だけれど、孤独ではない。しかし本当にそうだろうか。「たぶん」という確信認識の曖昧さ。
終電を守り続けて一生を終えるのだろう 星もみえない
歌集を通して、彼女は生真面目な人だ。そして臆病な人。ある一線を越えることを望みながら、躊躇い、迷いながら、なかなか一歩を踏み出せない。そして基本、受身な人でもある。状況を打破したいと思いながらも状況を受け入れる。終電の、終わりという言葉を、受け入れる自分。そんな自分へのかすかな苛立ち。
長々と並ぶ横文字 結局のところはつまり鮭なんでしょう
ゆら、とすら揺れない心を前にして関係に名を欲しがっている
名前とは何だろう。自分が何者なのか、名付けてもらえない不安や、名付けられることで安心をする、ということは確かにある。逆に、理解される為の名前なのに、言葉をだらだらと並べていくほど本質から遠ざかることもある。
そう言えば、最近のライトノベルのタイトルは皆、やたらと長ったらしい。その割にその量に見合った意味が込められているわけでもない。そして読者たちは皆、せっかくのその長ったらしいタイトルを、短い略称でしか呼ばない。タイトルをまともに読もうとするのは、その作品に愛着の無い、生真面目な部外者だけだ。
この歌集では、名前、名付ける、ということが繰り返し語られている。しかし、名前というものは、永遠なのだろうか。名付けられた瞬間から、実は変質は始まっていて、名付けようのないものへと、皆、少しずつ少しずつ崩れていくのかも知れない。
一本の髪のラインを引くために何度目だろうこのCtrl+Zは
※Ctrl+Zに「アンドウ」のルビ。
誰ひとり気づきはしない0.2ptフォントサイズを下げる
保存していないイラレと凍りつくわたし一瞬で失くす四時間
わたししか音を立てない深夜二時ことり、とペンを丁寧に置く
必要のない枠線を消してゆく<border=”0”>を世界に足して
彼女はデザイナーである。イラレとは、Illustratorという、デザインするためのパソコンのツール。仕事への拘りを強く感じさせる歌群。Ctrl+ZはパソコンのコントロールキーとZキーを同時に押すこと。これで今やった作業を取り消すことができる。作者は繰り返し繰り返し、たった一本の髪の毛を描くために何度もやり直しをしている。
ptは、ポイントと読む。文字の大きさを示す。0.2ぐらいでは、ほんの微調整で、見た人(クライアント)は気づかないのだろう。それでも、作る側には譲れない違いがあるのだ。
そして、パソコンでの作業では、おそらく誰しもが一度は覚えがあることだが、パソコンは、まま、フリーズ(突然、凍結したように動かなくなる)する。その場合、セーブ(保存)していない作業は、すべて消え失せて、二度と復元は出来ない。一からやり直し。だから大事なものほど、小まめなセーブが必要なのだが、作業に熱中すればするほど、忘れてしまうことがある。この時、何時間もの必死の作業がすべて無になり、頭の中が真っ白になる。愕然、狼狽、パソコンへの怒り、それよりも強い自分への怒り、後悔、やがて脱力感。血の気が引くとは、このことだ。
個人事業主である彼女には、仕事の定時というものが無い。二十四時間、必要であればいつでも働かなければならない。納期も、無茶なぐらい短いのであろう。それでも受けるしかない。様々な作業の果てに、深夜、ふと我に返る。世の中は寝静まっている。音に圧力を感じることはままあるが、音が無い、ということも時には圧力を持つ。無音の世界の中で、自分ひとりが無音という圧力に押し包まれている感覚。時間も静止している。その中で置かれるペン(タブレットのペンだろうか)。それだけが、わずかに時間を持ち、音を持って、存在を示している。
borderとは、プログラムするときに、たとえば表のようなものの枠に、目に見える「枠線」を付けるもの。<border=”0”>とは、枠線の太さをゼロにして、目に見える枠線を消す、ということ。消す、という行為が、何かを足す、という行為によって為されるのは、かすかな違和感を産む。ゼロと無は、似て非なるものだ。ゼロは無ではなく、そこにゼロとして存在する。目に見えなくなった枠線、消したはずの枠線は、しかし決して消えてはいない。
初めてのシャワーに背骨を叩かれて待つ人の腕の熱さを思う
桃を抱く手つきで崩されてしまう かんたんだから好きなんですか
心ごと置き去りにする使用済みタオルをふたつ折りたたむ部屋
初めてとはどういうことだろう。場所のことか、時のことか。これから始まることへの思い。それは期待なのか空虚さなのか。
桃は、注意深く扱わないとすぐ傷めてしまう。短歌の世界では、しばしば性愛の象徴として解釈される。それほど繊細な手で、しかしもろく崩されてしまう自分。簡単という言葉をひらがなに開くことで、記号化されてゆく世界。この相手が好きなのは、自分なのか、何なのか。
この場所はどこなのだろう。男の部屋か、ホテルか。おそらくは後者に思える。行為のあと、使ったタオルを丁寧に畳む。放置していてもベッドメイクのスタッフは、無感情で片付けてくれるのに。几帳面な人だ。置き去りにされた心も、放置ではなく、そっと丁寧に置かれたのだろう。
さみしさを音にできないくちびるが深夜ほのかに啜るラーメン
「声」とは違う。ここでは「音」なのだ。そこには「さみしさ」への距離感がある。吐き出すことの出来ない思いは、静かに内側に溜まっていく。そしてラーメンを食べるという行為も、外側へは開かず、内側へと向かうものである。
ぺたぺたぺたカツカツカツと並ぶ音 あぁ女子力の差というやつか
靴音だろう。ヒールのある靴と無い靴。女子力が無いことを嘆いているようだが、本当にそうなのか。女の子でありたい、という欲求はこの歌集の端々で語られている。ため息、と言えばそうなのだろうけれど、彼女はあくまで、受け身で世の中と対峙しているように思う。
思いつく限りのifを書き足したソースコードで挑む告白
ソースコードとは、プログラムを作成するときに書く、素のプログラムそのもの。作成物の表面には決して現れない。if文は、「もしもこうであれば、こうする」という条件と行動を書き連ねるもの。
彼女は恋した相手への告白(のシチュエーションあるいは結果)について、思いつく限りの可能性を想定しようとしている。しかしif文は、明示的かどうかは別として、else(それ以外)というもので閉じられる。ifを意識するとき、常にelseの存在も意識しなければならない。思いつく限りのif。しかしどんなに書き足しても、例外はあるのだ。この歌では表面化していないelseは、しかし忘れたわけではなく、思いの内側での、わざと見ない不安という形で彼女の中にあるのだろう。
絶対にわたしが触れることのないドアをくぐって会いにくるひと
距離感、というものだろうか。どんなに親しい関係になっていても、知らない世界がお互いにある。愛する人のすべてを知りたい、という期待、希望のようなことを歌った歌がこの歌集にはある。触れる、という行為を示す歌もこの歌集には多い。彼女にとって親しみ、愛おしさの象徴は「触れる」という行為なのだろう。そして「ドア」。それは彼女自身でもある。
距離ゼロの「触れる」という行為を、相手は、自分ではないどこかのドアに対して行なっている。そこには彼女の存在は無い。ひどいことを想像すれば、それは他の女性のドア(実際のドアであると同時にその女性の心身)なのかも知れない。
一本を吸い終わるまで置き去りにされることにはもう慣れていた
喉の奥からマルボロを匂わせて深く分け入る薄い舌先
体温と気温と湿度の上がる部屋 しろいね、きれい、きらい、うそつき
その男にとっては、煙草を一本吸うぐらい、なんでもない、取るに足らない時間だろう。女性の所在なげな落ち着かない寂しい思いを、意識することはない。その数分の孤独の重さが、どれほどのものか想像もしない。
恋する相手のくちづけが煙草くさいのも、恋の真っ最中であれば気にならなかったか、あるいはそれさえ恋のひとつだったかも知れない。けれど、ここでは、決してひとつになれない違和感を感じている。男の、おそらくは彼女に対する褒め言葉は、以前なら心地良かったのかも知れないが、今は彼女を傷つけるばかりだ。
その指が触れるとき何を思うのかわたしではないひととするひと
ふれることを強要しないひとといて微笑めば生まれてしまう棘
前にもあったが、「触れる」はこの歌集の(彼女の心の)強いキーワードである。だからこそ、私ではないひとという存在が、ひらがなに開かれていてなお、ナイフのように鋭く切りつける。そしてその男は、自分にはもうそれを強くは望まない。ひどく下世話な想像をすれば、二首目はかなりディープな性愛の歌に読める。しかし、ディープな行為であるからこそ、その棘は生々しい。
息白く見知らぬ駅で待っている わたし、だいじにされてなかった
底の底の底の底まで落ちるのを邪魔するように腹を揉む猫
一首目は、おそらくこの歌集の代表歌のひとつになるのだろう。秀歌だ。表面的な言葉としては簡潔。けれど、そこから言外に伝わる世界の広がり、奥行きの深さは。
二首目は、逆に、過剰に連ねられたひとつの言葉が結句へと雪崩れ込んでいく。揉む、という行為の絶妙さ。
気がつけばいつもの駅でポケットの小さな鍵を握りしめてる
鍵は、この歌集の中で繰り返し登場する、象徴的なアイテムだ。それは実際の鍵なのかも知れないし、精神的な比喩なのかも知れない。この鍵は、どのドアの鍵なのだろう。ドアというこれも象徴的なものと、単純に繋がっているようで、実はひどく捻じれている感もある。
濡れそぼる舗装道路の懐かしい匂い わたしね、ひとりになった
太刀魚もバケットもお茶も何もかもおいしいだから少しさみしい
晴れててもひとりで泣ける両腕に溢れるほどのあじさいがある
ぱたぱたとしっぽのリズムに見とれてるわたしは猫にあやされている
この歌集全体で思うことだが、心情をひとつひとつ、本当に丁寧に言葉を置いて表している。それがこの歌集の大きな魅力となっている。心を大事にするように、ひとつひとつの言葉を、立ち止まっては丁寧に置いている。だからこそ、一見ありきたりにも読めるわかりやすい表現でも、読む者の心にすっと入ってくる。言葉の扱いを、おろそかにしない。慈しむように言葉を扱う、ということは、誰もが出来ることではない。
立ち上がるその手に触れられたくなって「あ」って言った 言ってしまった
そんなにも開け放つから飛び込んでしまうじゃないか鍵のないひと
躊躇いに気づいてはいる沈黙をあげたら触れてもらえることも
新しい恋への入り口に、彼女は立っている。「触れる」「鍵」というワードがここではおだやかな(そうでもないか)期待に満ちている。三首目の絶妙な空気感。
初めての小籠包の食べ方を教えてくれた人になるひと
決して斬新な表現ではない。だが、秀歌だと思う。漢字の「人」、ひらがなに開いた「ひと」、なぜ、その表現を選んだのか。「初めて」は「はじめて」では駄目なのか。(駄目だろう)とても考えられた歌だと思う。
欠片さえぜんぶ棄てたいあのひとと砕けた音で話すあなたの
嫉妬、なのだろうか。あのひと、とは誰か。女性、と規定すると生々しいが、単なる親しい友人の男性かも知れない。そしてまた、「声」ではなく「音」である。
「砕けた」は、少し複雑で、繋がりで読めば「砕けた音」が正解なのだろうけれど「あのひとと砕けた」を重ねることも出来る。何より「欠片」は「音」の欠片ではなく「あなた」の欠片なのだ。明るい「くだけた会話」を、「砕」の字で表すとき、「欠片」と相まってなんとも硬質な緊張した空気が生まれる。
したいことされたくなってひらく花こんなに空の見えない部屋で
瞬間に世界はあまく色づいて桃ごとほおばるきみのゆびさき
きっと今いちばんきれい内側に確かなすきを注がれている
純愛と読んでももちろん良いが、性愛の歌と読んだ。「桃」がまた出てきている。一首目は、見えない「、」(読点)が幾つもあるように思える。その、見えないたどたどしさと情景で、過剰に濃密になるところを、ぎりぎり「花」が反転させている。二首目はシンプルなフレームで、ストレートに流れ落ちていくのが心地良い。三首目は、「すき」をひらがなに開いていることで、解釈に少しの戸惑いを生んでいる。「好き」ということなのだろうけれど、甘くなり過ぎないように開いた、という単純なことではなさそうだ。「隙」という言葉も匂う気がする。もしそうならばその「隙」「隙間」とは、どういうものだろう。
ところで、唐突だがここで、他の歌人の歌で、印象的に桃を使っている歌を二首掲げておく。
廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て
東直子 『春原さんのリコーダー』
水蜜桃の汁吸うごとく愛されて前世も我は女と思う
俵万智『チョコレート革命』
指示通り延々さがしたテクスチャを「背景白で」の四文字が消す
冬深くやわらかに強いられているこの日常は選択の果て
降りやまぬ雨 もうことばにならなくて読点ばかりきみへとこぼす
曇り空ちぎれて落ちてくるようなさくら いつでもきみは離れる
あのひとに俺のと言われるためだけに長い電車にゆられています
ここでは、創作の中の彼女ではなく、作者と作品の話をする。ときどき、押し出して来る意味が強すぎて、歌をぎこちなくさせているものも散見される。ストレートな表現が悪いわけではない。それでとても良い歌は多々ある。だが、あえて歌という表現を選んだのであれば、「言葉の昇華」という意味において、まだ足りない部分はあるのではないか。その心象風景を表現するのは、短歌でなければならない必然があるのか。目の前にあったのがたまたま短歌だったから使っただけなのか。それは、これほど深く短歌に潜って表現できている作者にはあり得ないと思うが。これらの歌は、もっともっと、この上なく化ける要素はあると思う。
目覚めれば前髪を撫でてゆく風を生み出すひとのやさしい寝息
さっきから撫でられているこの風はあなたのゆびの感触がする
届けたい言葉も無くて吐く息の白が見たくて零す「あ、雪」
困らせてしまいたくなる訳もなく未読のままで過ごす一日
前に、手に触れたくてわざと「あ」と言った、という歌があった。それは彼との距離を少しでも縮めたい、ゼロにしたい、という欲求だった。ここでも「あ」は、欲求に使われている。しかしそれは、もはや充分に距離を乗り越えた関係の中での、明るい欲求なのだろう。
LINEには「既読スルー」と言う言葉がある。読んだけれど返事をしない、ということ。ここでは、それよりもさらに以前の状態。着信はわかっていても、読みもしないで放置している。彼からの言葉は何なのかわからない。けれど、決して嫌なものではないことはわかっている。むしろ嬉しい内容だろう。それでも読まない不思議な心理。彼女自身がそれに戸惑っていて、訳もなく、と理由を放棄している。
丸ペンはさりさり歌うふうわりとひかりをはらむ髪を生むとき
前に一本の髪の毛に拘る姿があったが、あれは画面の中、つまりパソコンのタブレットだった(と思う)。それがここでは、紙に丸ペンで描いている。デジタルの硬質さからやわらかなアナログへと、感覚はおだやかに落ち着いてゆく。ヒリヒリとしていた前者と違い、なんておだやかな光なのだろう。
この街でただひとつきりこのドアはわたしの鍵で開けていいドア
名前すら知らない花にも名はあってあなたもそれが気になるひとだ
ふかふかと陽だまりの音ひびかせてオルガンみたいにわらうからすき
ドアと鍵(それは物質としての鍵と心身の比喩の両方を表す)は、これまでも繰り返し出て来ていたが、これまでは大抵、どこか冷たく硬いイメージを伴っていたように思う。そこには必ず孤独があった(例外もあるけれど)。開けていい、の「いい」は、自分への明るい肯定感がある。「ひとつきり」も、孤独ではなく、大切なものを持っている喜びがある。
名前は、これまで彼女と相手との関係性の中で語られていた。しかしここではもう、そこに拘泥していない。開け放たれた「あなた」との無条件の関係の中で、花の名を知りたいという欲求を共有する嬉しさ。
これまで頻出していたさまざまなキーワードが、まるでひとつひとつ、浄化されていくように明るく変換されてゆく。
陽だまりの音、とはどういうものか、と軽く立ち止まる。視覚を聴覚にずらしている。そして、オルガンのような笑い声だとわかる。その笑い声に陽だまりの光が重なる。何のバイアスも掛からない純粋な喜びがそこにはある。感情過多にならず抑制された表現。だから、生臭さが無く、おだやかでさわやかだ。
玄関のドアをひらけば吹いてくる風のことです春というのは
追い風となれこの声をこの歌をあなたが春と名付けるならば
巻末の歌を巻頭歌と並べてみた。この歌で歌集は完結する。巻頭歌との響き合い。巻頭歌では春を名付けたのは彼女だが、この歌では「あなた」が名付けている。最初、彼女の内側に吹き込んできていた風は、開放的な追い風となって終わる。明るい疾走感。彼女はおだやかに微笑んでこの歌集を閉じるのだろう。
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作者はあとがきで、この歌集は編年体ではなく組み直したものと言っている。読者にはふたつの恋の物語と見えても、ひょっとしたらそれは、バラバラな幾つかの恋をまとめたものかも知れない。過去と未来の関係も、この通りではないのかも知れない。その意味で、この歌集全体が、作者が創作した、ひとつの大きな歌である。僕はこの歌集を読みながら、時にハラハラとし、時に楽しく、一喜一憂しながら歌たちと並走した。彼女にはしあわせになってほしいと願った。その意味で、この歌集はひとつの物語として、僕を支配したことになる。
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ここに書いたのは、言うまでもなく、ひとりの読者としての僕の解釈に過ぎない。他の読者にとっては、あるいはまったく違う景色が見えているのかも知れない。性別、年代、個人個人の経験や感覚で、さまざまなおもちゃの街の景色が見えていることだろう。ちなみに僕は、もうすぐ58歳になる初老の男だ。
長々と、そしてごちゃごちゃと、偏った目で歌を解釈し、この歌集の良さを損ねたところがあるかも知れない。そこは謝罪したい。けれど、僕が取りあげたもの以外にもいっぱい秀歌はある。いや、秀歌とかそんな目線で構えなくてもいい。ぜひ、購入してぜんぶの歌を読んでほしい。多くの読者の手に渡り、それぞれの胸に、それぞれの風を感じてもらえるといいな、と、祈っている。
こはぎさん、これは、良い歌集です。
■2020年10月2日 塩谷風月 記