エネルゲイアな生き方
今回読んだ本として、岡本太郎の「自分の中に毒を持て」、岸見一郎の「人生は苦である、でも死んではいけない」の2冊があるのだが、双方には共通する観念が多い。その中でも一番は、「キーネーシスではなく、エネルゲイアな生き方を推奨していること」である。
キーネーシスは始点と終点がある運動のことで、それを人生に例えると完結すること、目標達成に関して効率を求める事、効用が最大であることが挙げあれる。
エネルゲイアはそのような功利的な考え方ではなく、今この瞬間の一瞬一瞬において人生が完結しているさまである。そこには完結する必要性や効率といった概念は必要ない。
この二項対立的な人生の捉え方は、古代ギリシアのアリストテレスまで遡る。
今のこの現代においてキーネーシスな生き方ばかりが一人歩きしていると感じるのは私だけであろうか。情報通信革命、自動化。ありとあらゆるものや工程が機械にとって代わり、人は何においても効率や生産性を追い求めるようになった。自転車で行ける距離を電車で行き、書籍で得られる情報を検索エンジンを動作させてものの一瞬で自分のものにする。
それ自体が悪いことだとは思わない。世の中が機会の進歩や情報革命によって便利になり、我々の活動の制約の壁は溶け、自分の時間をありとあらゆることに使えるようになった。
私が問いたいのは、現代社会における文明の過度な発達が功利主義、生産性至上主義、キーネーシス的な物の見方に拍車をかけていることである。
全てにおいて効率や効用を重視する。何かを始める前に、そのもののもたらす効用や得られるものを重視する。そうすることによって無駄を省き、有限である人生の時間を有意義に使おうとする姿勢は評価できる。
しかしながらこの地球に生まれた人間として、生きる意味なんて本当にあるのであろうか。生きることは本来無目的なことではないだろうか。「自分の中に毒を持て」の著者、岡本太郎も生きる意味は本来無目的であると説いている。全くその通りである。なにもペシミスティックな観念に踊らされているわけではない。私たちを日頃支配する効用を過度に重視する功利主義、生産性至上主義的な考え方が人生を生きづらくしている。
岸見一郎は「幸福とは、成功の先にあるのではなく、存在そのものにある」と説く。すなわち受験に成功し、世間的に良しとされている企業に入社し、安定的に給与を稼ぎ、家庭を持ち、マイホームを建てるといった、長年の社会に蓄積された世俗的な幸福感はすべて成功を価値基準にしている。他人を蹴落とし、自分の効用や利益を重視する。失敗の先に得られるものは何もなく、安定をとりあくまで現在の既得利益の保持に努める。
そのような生き方の先には世間一般に言われる幸福は存在するとは思う。しかし本当の幸福というものは「成功や効用、利益」といったものの先にあるのではなく、今この瞬間、この世に生きていることである。存在である。
すなわち幸せ、幸福は掴むものではない。そこに既に存在し、我々が気づいていないだけである。足るを知るような生き方だと敬遠する人もいるかもしれないが、成功の先に幸福を求める限り人は永遠に幸せにはならない。
ともすれば生まれながらにして先天的に体が不自由な人、生まれながらにして経済的事情に苦しみ不遇な生活を送っている人には幸せはないのであろうか。私が思うに、日本よりもはるかに経済的に遅れをとり、物質的欲求にも恵まれずに暮らしている途上国の人々のほうが、遙かに精神的には豊かに、幸福に暮らしているように写る。
それは彼らが人生に効用、利益を求めていないからである。エネルゲイア的に、今のこの瞬間を一生懸命に生きているからである。生産性や物質的欲求に飽くなきように囚われている我々先進諸国の人々とは異なり、家族や自分の属する共同体の価値基準に従って、物質的には満たされないとしてもはるかに精神的には豊かに暮らしているかのように感じられる。
今の我々に求められる生き方は、機械革命、情報通信革命、グローバル化がもたらした、成功の先に幸福を求める生き方、キーネーシスに準拠した生き方から脱し、今のこの瞬間を全力で生きる、一瞬一瞬を大切に生きるエネルゲイアな生き方を体現することである。
グローバル資本主義社会も熟し、この先の社会変容に陰りが見え始めた。VUCAに表されるように、現代社会の問題は非常に多角構造化し、複雑かつ曖昧である。これまでの課題解決手法が通用しないことなんてざらである。
そんな社会に求められる生き方は上記の、成功に囚われずに、自分らしく今この瞬間を一生懸命に生きることである。
今の社会では将来年金はもらえるのか、AIに仕事は奪われてしまうのか、米中対立のように世界の分断はこれからも深刻化するのか、、、、、。
心配事を挙げれば枚挙に暇がない。しかしこれらの問題は”未来”に対しての漠然たる不安である。2060年において日本の財政状況がどのような結末に転じているか。年金制度は形骸化せずに存続しているのか。そんなものは誰にも分からない。求められることは、制御不能な変数である漠然たる未来に憂いを抱くことでもない。過ぎ去った過去を悔やむことでも無い。
制御可能な”今この瞬間”を一生懸命に生きることである。それしか我々にできることはない。未来なんて誰も分からない。そして1年後すらどうなっているかも誰にも分からない。
未来に対して憂いを抱くとき、我々は当然のように明日が来ると思っている。しかし全世界の誰一人として明日が来ることを保障されている人はいない。それは今のこの瞬間を全力で生きていない証拠である。
計測不能、制御不能な未来では無く、今確実にある”この瞬間”を生きることだ。それが我々にもたらされた、不確実な社会を息抜く唯一の処方箋である。
そして今のこの瞬間を生きることは独りで黙々とやるべき事を遂行する生き方ではない。身近にいる大切な人の存在の有り難みを噛みしめながら、その人と共有する今の”この瞬間”がかけがえのないプライスレスなものであることを心に秘めることなんだ。何気ない一瞬でさえ、どれだけカネを積んでも二度と返ってこない。
人は今のこの瞬間の有り難みを感じていない時、目の前にいる大切な人と過ごすこの瞬間の価値を理解していない。そして何かの拍子でその関係が失われた時、初めてその価値に気づく。そして失われたその時間、瞬間は二度戻っては来ない。
そのような結末を迎えないためにも、日頃から大切な人に感謝を伝えることを欠かさないこと、そして今のこの瞬間を大切に生きることだ。感謝を伝えることは、自己肯定感を高め、自分を大切にすることにもつながる。
人は生まれながらにして誰もが価値を有し、誰もが他者に貢献している。よく引きこもりやニートなど、職に就かないものを揶揄して
「働かざる者食うべからず」と言う言葉があるが、
残酷な言葉であると思う。人は働くこと、他者に効用や利益をもたらすことでしかその価値を認められないのか。
アドラーはかつて、「自身が所属する共同体に価値を提供し、認められた時のみ自己の価値を認める」と説いた。私はそうは思わない。人は他者に認められたい。人は古来から他者との共存を望み、群れで生きる社会的動物なのでその欲求は全うかつ当然なものである。
しかし、働かない者が誰の役にも立たず、それゆえに価値を認められないとしたら、赤ん坊、高齢者、常に他者の補助、介助を必要とする病気をもつ人はどうなるのか。はたして価値がないのか。
そんなわけない。人は生まれながらにして価値をもつ。そしてこの世に存在しているだけで価値がある。他者の役に立っている。未だ効果的な治療法が確立されていない難病として知られるALSがある。運動を司る運動ニューロンという神経が損傷し、最終的には自力で呼吸することすら難を伴う。常に他者の介助がなければ生存も危ぶまれる難病である。末期のALS患者はこれ以上の生命維持装置の接続を拒み、安楽死を医師に望むケースが存在するという。
患者の立場から考えると、常に誰かの介助を必要とする。人間にとって最も原始的かつ初歩的な呼吸すら自力で行うことができないという無力感、絶望感に苛まれ、生きる気力をなくすという。この世に存在する意味を問うこともある。
しかしながら私は思う。人は誰かに何かを施してあげることでしかその価値は認められないのか。違う。この世に生きていること、それ自体が尊い、不可侵かつ排他的な絶対価値なんだ。赤ん坊でも、難病の患者でも、健康な人でも、高所得者でも、経済的に不遇な人でも、誰もがその社会的地位や影響力、価値観にかかわらず価値があるんだ。生きているというその事実だけで。
人の価値は生産性という尺度で測られるべきものでは断じてない。
だれもが等しく価値を有し、そんな社会においてキーネーシスでは無く、生産性や効用に囚われず、今のこの瞬間を大切な人と噛みしめながら生きること。そんな社会が本当の”善き”社会だ。
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