【#1-4:散策コラム-呉市音戸遊廓跡を訪ねて-】
いつ秋が来るのか?そんな気分でお過ごしの皆様へ。いかがお過ごしでしょうか。
私は仕事の合間を縫って直近の散策対象の調べ物を継続している次第です。(※とは言いつつかなり後回しになっていますが…。)
さて今回は広島県呉市音戸に嘗て栄えた遊廓跡を散策、記事にまとめた物を紹介していきます。
1.場所の紹介-音戸ってどこ?-
今回散策する音戸地区は広島県西部の呉市からバスまたは車で20分程度南に移動した場所にです。
海の交通の難所でありながら、音戸大橋と真下に広がる街並みによって風光明媚な場所として認知されています。
2.何故ここに遊廓が出来たのか?
この様に長閑な海辺の町に何故遊廓が必要とされたでしょうか?
それはこの地一帯が嘗て重要な軍事拠点であった為です。先程も地図で示した様にここは呉市から10キロ圏に位置します。明治に入り、この近辺は呉鎮守府の設置で一大軍事拠点と変貌を遂げます。その流れで音戸一帯にも大砲の試験場、弾薬庫が設置されました。又それに伴い明治32年に”要塞地帯法”の施行を受け、漁業や商業等の活動を制限される事態になったのです。
よってそれまでは潮待ちの場所(※帆船を使った江戸時代から明治初頭にかけての舟の待機場所)及び漁村として漁をして生計を立ててきた人々は稼ぎの代替手段を見つける必要がありました。その一つが遊廓経営でした。呉市のから近く軍や工場関係者の需要が常に満たされる場所としてこの地が相応しいというのも頷けます。
既に呉市内には吉浦と朝日町に遊廓がありましたが、それでも需要が満たせない程であったそうですね。
3.当時の規模
当時の『全国遊廓案内』には以下の記載があります。
「明治38年、座敷が八軒あり、娼妓は八十五居る。福岡県、熊本県の女が多い。店は写真式で陰店は張つて無い。娼妓は居稼ぎ制で送り込み」(原文ママ)
他の遊郭と比較して、余り大規模ではありません。故に呉周辺での隠れ家的な遊び場所でした。(※お客は海軍幹部等が多かった様です。階級別に遊ぶとことが区分けされていた為ですね。)
因みに呉周辺で最初にできたのは西部の吉浦遊郭です。その後中心部に朝日町遊郭、ついで音戸遊郭が出来た流れになります。規模としては朝日町が最大であり(※当初は吉浦の規模が大きかったようですが。)、次いで吉浦、音戸の順でした。
4.跡地へ向かう
それでは最寄りのバス停で下車し、嘗ての跡地へ向かいます。
歩くこと3分余りで到着しました。
5.総括-普遍的な人間の営み-
散策は以上です。今回の経験を経て、戦争と遊廓の深い繋がりを改めて感じさせられました。
富国強兵によってそれ以前の生計を変えざるを得なかった地元の人々と新たな需要を満たした遊廓の関係性が見出された為です。
当時は漁業という生業を保持するために国に対してあからさまな権利の訴えは難しい時代でした。その為、苦肉の策で始めた商売という側面が大きかったのです。またここに売られてきた女性たちの悲哀も記録には残っていませんが確実に存在しました。つまり戦場に行かざるを得なかった男性を含め、多くの人間が”自分で人生の決定を出来なかった時代”を象徴する場所なのです。反面、今の時代はどうでしょうか?過去よりは自己決定の範囲と機会が増えていますね。個人的には大変幸せな事に感じます。
最後に痛感したのが、いつの世も戦争と売春は絶えることなく密接に関連しているということです。今回の場所は70年以上前の世の中の仕組みによって動いていた場所です。しかし、世界各地で同様の関係性が引き継がれています。これは人間が生き続ける限り形を変えて残るのです。その大河の一角を再認識出来た散策でした。
そして近代化に伴う体制の変化によって生み出され、栄えた町は今現在、再び近代以前の役割戻りつつあるのです。閑散とした時の流れが遅い場所へ...。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。次回以降も宜しくお願い致します。