【#1-5:散策コラム-薩摩に残る赤線跡を目指して-】
読者の皆様、いかがお過ごしでしょう?涼しくなり過ごし易い時期が来ましたね。
早速今回の散策地ですが、これまでの瀬戸内を飛び出し鹿児島としました。(※出張の機会を利用した事は言うまでもありません。)場所は鹿児島県下で唯一公認の遊廓、沖ノ村です。
尚、この地名は現在では甲突町と記されています。
1.この場所を知った経緯と訪問の動機
どこで、いつこの場所の存在を知ったのか?問われれば勿論『全国遊廓案内』です。その後、今回の鹿児島訪問に合わせて当時の規模と場所を調べたという流れでした。
また鹿児島県下唯一の公認遊廓であった為、土地柄も反映した場所であったと想像し、訪問を望む様になりました。
(※奄美、琉球との繋がりですね…。この地域出身者が特定の生業に従事していたと記録がありますから。)
2.沖ノ村遊廓の起こり
この遊廓の起源は明治になります。当時から沖ノ村の名前で存在していました。別名を塩屋町といい、この地にあった製塩産業を示す地名ですね。
またこの点から察する通り、甲突川下流の土地を埋め立てて造成された場所となっています。
しかし、この地での開業直後に築地遊廓と統合されて常磐遊廓と名を変えて営業したとの事です。そこの後、赤線からちょんの間へと変化を遂げています。この統合理由として築地遊廓の側に鹿児島駅が開業し、風紀関連で宜しくないとの判断がされた為と言われていますね。
因みに”鹿児島駅”は明治時代の鉄道開業時は県下主要駅でしたが、その後鹿児島中央駅に取って代わられた場所です。
この様に時代の変遷に伴う都市開発に翻弄されてきた旧遊廓街は令和の現在、どの様な変貌を遂げているのでしょう?
3.現在の姿-散策中の写真を交えて-
住宅街を進むとそれらしき空気が漂って来ました。
4.散策後の所感と分析
写真撮影をメインにした散策は以上です。裏通りに入ると一面””ソープ街””であり、人の目も多かったため撮影は断念しました。加えて県下最大の暴〇団の事務所が居を構えているため、不審な行動は控えるべきですね….。
さて所感としては、「文化は絶えつつあるも箱(建物)が証人たる」場所の典型だということですね。
大方、過去からの色街には現在風俗街が形成されていますがそれには三つのパターンがあります。
-(1)-旧遊郭の流れを汲む赤線地帯の分類-
①過去から同様の建物または敷地を踏襲している(※大阪など関西圏)
②営みの区画は隣接しているが別ブロック(※最も多い形式)
③遺構だけ残る場所(※産業の変化で過疎化した地方に多い)
これらから考察すると甲突町は②に該当します。流石、南九州の中核都市であり一定の需要を満たしている故でしょう。
-(2)-今後の予想-
ただ、人とカネが集まるメインは現役のソープ街の方であり旧遊郭及び赤線跡は衰退の一途をだどっています。例えば今回立ち寄っている中でお目当てのカフェー建築が数件取り壊されていました。また前掲した写真をご覧になればお判りでしょうが、住宅地や商用地として開発が見込まれるは所ではありませんね。仮に何か作られるとしても現在の遺構は取り壊しが確実でしょう。文化としての価値は一般的には高いものとは言えませんから。むしろ後ろめたい感情が湧く人も多いのでしょうね。
よって文化的な側面から今回の訪問と写真撮影は大いに意義があったと感じています。
以上、今回の散策記録でした。多忙が続きまめな更新が出来なかったため、時間が空いての更新となりました。決して意欲が薄れている訳ではありません。今後も定期的に更新して参ります。宜しくお願い致します。