#12 瀬戸の磁祖・加藤民吉の修行を誤解していないか?
瀬戸のせともの祭はもともと9月の窯神神社の例祭にあわせて廉売市を開いたのが始まりでした。窯神神社はちょうど名鉄の尾張瀬戸駅から北に見える小高い丘の上に鎮座しています。そこには磁祖・加藤民吉が祀られています。
以前にも書きましたが、瀬戸は陶器も磁器もどちらも生産出来る稀有な産地です。陶器の技術を中国からもたらしたのが陶祖・加藤景正(藤四郎)とされ、九州から磁器の技術をもたらしたのが加藤民吉となります。
鎌倉時代とされる陶祖・藤四郎が「伝説」の域を出ないのに比べ、江戸時代の磁祖・民吉の活躍は多くの資料が残っています。
しかし、民吉の生涯も誤解多いのも事実です。
民吉の物語というと、九州で門外不出の磁器の技法を入手するため、現地の窯元を騙し娘と結婚し子どもをつくり安心させておいて、一子相伝の技術を盗み瀬戸へ帰った、というもの。その後、民吉を追って瀬戸に来た母子は騙されていたことを知り、池に身を投げた……。そのため、今でもせともの祭には母子の涙雨が降る、とか。
なかなかスキャンダルな産業スパイのストーリーですね。瀬戸でもそれが事実と思っている人が結構いるようです。
実はこれ、昭和の初めに上演された歌舞伎「佐々の悪魔・瀬戸の窯神 明暗縁染付(ふたおもてえにしのそめつけ)」のストーリーなんです。磁器生産でますます発展した瀬戸の磁祖・民吉を題材に作られたフィクションです。改めて見るといかにも歌舞伎っぽいストーリーじゃないですか、これ?!
昨年の民吉生誕250周年にあわせて資料展示なども行われ、最近では正しく評価されてきています。
民吉の時代(1771−1824)、九州での磁器生産はシェアを伸ばしました。薄く丈夫な磁器……瀬戸でも磁器の試作を行いますが、完成には一歩届きません。
当時の瀬戸は窯屋が増えて共倒れにならないように長男が窯を継ぎ、それ以外は他の職にというルールがあったようです。民吉は次男であったため窯を離れ、名古屋熱田での新田開発に汗を流していました。しかし、身についていた焼き物作りの技術をかわれ尾張藩の磁器試作に参加します。そして、磁器完成への最後のピースを求めて民吉が九州修行に行った……これはもちろん史実です。
しかし、産業スパイのようなコソコソしたものではなく、尾張藩や瀬戸村のバックアップを受け、現地では天草・東向寺の住職であった天中和尚(瀬戸・菱野出身)を頼り窯屋の紹介を受け、ちゃんと窯屋にも素性を明かした筋の通った修行でした。とは言っても、技術を他の土地の者に伝えることには厳しい産地もあり、条件に合う窯屋を探し移動、佐々の地で落ちつきます。その修行は3年間におよびました。
自分の想像も含めてになりますが、受け入れる九州の窯屋にも十分にメリットはあったんじゃないかと思うのです。瀬戸の様々な色の釉の技術など、九州の産地が欲しがる技術を民吉は持っていたはず。現代のクロスライセンス的な技術の交換(交流)はあったと思います。民吉が技術を習得した後も世話になった窯屋に請われて、瀬戸に戻るのを遅らせたようなので、優れた技術の陶工だったようです。
ただ、九州の技術を単純に持って来たとしても、磁器の原料になる陶石が瀬戸で採れるわけではなく、瀬戸の土をアレンジして「瀬戸の磁器」を完成させるにはさらなる研究は必要だったでしょう。
実際は民吉は独身のまま九州修行に行き、瀬戸に戻ってから結婚したということですので、「冷酷な産業スパイと悲恋の物語」はウソということでよろしくお願いいたします。瀬戸の磁祖です。