Uni-verse:宇宙、それは一篇の詩。
7月に入ってからPoint of Power Is Now (PoP IN, ポップイン)の遊びを毎朝7時から実施している。
「現実は自らが創り出している。」
「パワーのポイントは現在にある。」
「自己に限りはない。」
こうした"fact"に基づいて、自分のありたい姿に5分間だけ意識を集中させる。
その姿こそ本当の自分であると、自己同一視することに、5分間意識を向ける。
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そのワークを今朝やっているときに、最近セス・マテリアルでよく登場する、
"You live in a safe universe."
という言葉を紹介した。
ところで、と参加者の一人の方に尋ねられた。
「"Universe"ってどういう語源からきているのかな??」
この問いを受けた瞬間に閃いたのは、
"Uni(一つの)" "Verse(詩)"
「一篇の詩」
という言葉だった。
「うーん、じゃあそのタイトルは?」
さらに立てられた問いに次いで浮かんだのは、
"This is me."
「これが、私だ。」
だった。
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あぁ、そうか。
確かに宇宙は"This is me."を伝える一篇の詩だ。
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そのつながりを物語る、私なりの宇宙の創世記。
はじまりはじまり〜。
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その才能あふれる画家は、苦悩していた。
内から溢れ出る、あり余るほどの才能に、ポテンシャルに。
「あなたのその才能を、ポテンシャルを、あなた全体を、あなたそのものを、絵にしてみてもらえないだろうか?」
また無茶なことをリクエストするものだ。
どういう絵を書けば、このリクエストに応えられるのか。
その画家は苦悩していた。
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浮かんでくるイメージがある。
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物質というものがあって、
太陽系というものがあって、
その中には地球という、えも言われぬ美しい惑星がある。
大地があって、海があって、生き物たちがいる。
動物がいて、植物がいて、、、そうだ、人間というものもいる。
文化があって、社会があって、科学がある。
一人一人が別々で、、、
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そうだな、ここらで一つ試しに、20-21世紀と呼ばれる時代に生きる、南郷 興平という人物を描いてみよう。
彼は四人兄妹の次男坊。
年の近い兄と妹に囲まれて育つ。
だから、
「親の愛情を十分に受け取れてこなかった。」
という思い込みを、彼は一旦抱くだろう。
でもそれは、外に多くの友人をつくる推進力となる。
多くの友ができたのちに、その思い込みを彼は外すだろう。
そうならない蓋然性も当然あるが。
一旦はその蓋然性の線で想像を進めてみよう。
こうした彼の成長を表す色は、何色が相応しかろうか……
輪郭はどうした線で描かれるべきであろうか……
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親の関心を引こうと、彼は病気という手段に訴えるかもしれない。
たとえばそうだな、小児喘息だ。
これには彼の周囲が持つ、無力感の影響などもあるだろう。
「私は、病気というものに対して無力である。」
そんな思い込みを、彼は一旦抱くだろう。
だがそれは、病気に苦しむ人たちと共感し、関係性を構築する、かけがえのない経験となるだろう。
十分にその苦しみを味わい、その病気を必要としていた状況が変化したとき、病気というコミュニケーションツールが不要になったとき、彼は気づくだろう。
「肉体は、健康である。」
「私は、健康である。」
と。
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一方で、
「私の外には、私の安全を脅かす何かがある。」
「私は、安全ではない。」
病気をした経験などから、彼の中でこうした思い込みがしばらく根強く残るだろう。
これらの思い込みを抱えながら社会に出ることで、彼はひと時、陰謀論に染め上げられるかもしれない。
「社会には、人類の支配を企む悪の勢力がいる。」
彼の心の闇が、そうした思い込みへと転じ、その思い込みはあたかも、真実であるかのように、現実へと投影されるだろう。
その枠組みは、しかしながら、彼をして社会や経済の仕組みを深く理解させる推進力となるだろう。
十分な知識が得られ、それらの思い込みが必要であった状況が変化したとき、彼はまたその枠組みを脱ぎ捨てるだろう。
出会う人出会う人が最善を尽くして懸命に生きる姿と、
陰謀論が描く人物像とのギャップに違和感を覚え、
陰謀論は現実が持つ本来の性質などではなく、
自分が現実というものに対して抱いていた、現実についての思い込みであった、ということに気づいて。
「私は私の思い込みに基づいて、私の現実を創造している。」
そう気がついて。
すべてのローカルな思い込みが外れたとき、
「私のいる宇宙は、私の生きる現実は、起こるすべての出来事は、安全である。」
彼はそのことを確信するだろう。
だって、それが本来なのだから。
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絵画の世界に入り込んでいた画家の意識が、ふっと「現実」に戻る。
ふむふむ。
そんな人物像を深く想像してみたが、なかなか良いモチーフだ。
だが、待て。
私の内にある途方もない創造性は、
たった一つの惑星の、たった一つの時代を生きる、たった一人の人物では到底語り尽くせるものではない。
過去から未来の一本線に沿ったような、窮屈なリアリティではなおのこと、未来から過去、外向きに、内向きに時間を展開させても及ばない。
すべての時代を生きる、ありとあらゆるシチュエーションで、ありとあらゆる人間が発揮する能力をもってしても、語り尽くすことはできない。
動物たちのすべての在り方をもってしても語り尽くすことはできない。
植物たちのすべての在り方をもってしても語り尽くすことはできない。
宇宙と呼ばれるものの中にある、すべての銀河、その中のすべての星が内包する、すべての存在の在り方をもってしても、語り尽くすことはできない。
どうすれば良いのか……
我ながら、手に余るほどの果てしなさを持ったポテンシャルであることよ……
***
ふと気がつくと、画家は眠っていた。
目覚めた直後の倦怠感とともに、画家は少しやけになって思った。
「そうだ、私の才能のすべてを、ポテンシャルのすべてを、私の絵に登場するすべての存在たちに与えてみよう。」
そもそも、自分だけですべてを完成させようと思うところに無理があったのかもしれない。
「そうしてすべての存在のそれぞれが、ひとりでに創り出す宇宙でもって、私というものを、私の描きたい、この果てしないポテンシャルを語らしめよう。」
すべての能力を余すことなく全権委譲された、それらの存在が創り出す宇宙は、自分の想定を超えたような場面や状況すら描き出すだろう。
それらは私自身を驚かすだろう。
だから決して、コントロールしようとするまい。
すべてに完全な自由を与えよう。
画家はそう心に決めた。
「だがそれでもなお、私の自己表現は永遠に完成しないだろう。
私は常に、それらのすべてを足し合わせた以上の何かであるのだから。」
***
このようなアイデアに到達したときに、その絵画は創られた。
激しい歓喜のスパークが起こった。
メンタル・ビッグバンが起こった。
極めて大なるものから、極めて小なるものに至るまで、
等しいポテンシャルが与えられ
それぞれがsponteneityに、自発性に従って、気の向くままに振る舞うことが、周囲のすべてのvalue fullfilmentにつながる
すべての瞬間において、すべての当事者たちのvalueがfullfilされる
なにものも害されることなく、
調和に満ち、すべてが協力しあう
壮大な"Universe"が生まれた。
***
そのUniverseの中ですべての存在たちは、「自分は自分である。」という自己認識を常にしている。
他とどれだけ複雑に混じり合っても、
その自己認識が失われることはない。
そして、ぼんやりといつも、
「自分を生み出してくれた何かがいたな。」
と感じている。
その何かを知ろうとする。
自分を知ろうとする。
自分の知る自分の範囲で、自分を表現しようとする。
自己実現しようとする。
***
そうしてすべての存在によって発揮された能力のすべてが、その瞬間における画家の描こうとしていた果てしないポテンシャルの全体像を描くことになる。
その中では、どれほど些細に思える能力も、欠かすことができない。
欠けて良いものなど、何一つ存在しない。
余計なものなど、何一つ存在しない。
すべてのものごとが、どこかで何かに活かされている。
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画家はそうして、自ら描いた宇宙の絵を通じて、自分ですら気づかなかった無数の自分の側面を知る。
そうして新たに知られたことが、絵の中の当事者たちに即座に共有される。
そもそも画家は、
「自らのポテンシャルのすべてを、その絵に登場するすべてに与える」
そう決めて始まっているため、必然的にそうなる。
***
その絵は、生きている。
壮大で、リアルタイムな、自己理解と自己実現のフィードバック・バージョンアップ・システム。
「これが、私だ。」
"This is me."
永遠に完成することのない、予測不可能に変わり続けるその"Unvierse"の絵は、
私の、あなたの、すべての存在が等しく持つ、果てしないポテンシャルを物語る、
一篇の詩を表している。