労働に向いていない性格を農園で感じる
先日、妻と近所にある体験農園に行ってきた。説明を受けた後、ちょうど野菜を収穫するタイミングだった参加者の方が、野菜を分けてくれると言ってくれた。しかも、農業未体験の私に、根菜を土から引き抜くのをさせてくれるというのである。私は言われたとおりにやってみて、無事にきれいに野菜を収穫することができた。
その後、籠いっぱいに収穫した野菜を、また別の人が持ってきて、農園にきている人にお裾分けといって「自由に持ってって」と置いていった。籠にはたくさんの野菜が入っている。
モノづくりはいいなあと常々思っている私は、「あー色んな野菜があって、コツコツ育って、人が地道にお世話をして、できあがっていくんだなー、いいなあ(ニヤニヤ)」という感じで、いつものニコニコモード(自分は幸福だと実感して笑みが生じること)になっていたのだが、収穫した人を含め周りの人は、収穫された野菜の出来について、ああだこうだと話していた。
「お店に出せないようなものでも、味は変わらないし、食べれるから、持っていきな!」みたいな感じである。
妻も、帰宅後に「あの中にはちょっとお店に出せないような野菜もあったよね」と言っていた。
私は野菜の出来なんて一切考えていなかったし、見てさえいなかった。見た目がどうだから商品にならないとか、形がどうのこうのとか、そんなことは本当に一ミリも頭になくて、「〇〇にして食べたら美味しいんだろうな」とか「土から作物ができて、生命の動きなんだな」としか思わなかったのだ。というか、スーパーで買い物するときも、腐っていないかどうかしか見ていないことに気づく。
そしてこれが、私が労働に不向きな理由の一つであると感じた。
私は労働しているとき、常にこう思っている。
「なぜ、どいつもこいつも他人の成果物や仕事の仕方を批判するんだろう。こだわったってこだわらなくたって結果は同じなのに」と。
たとえば内部書類一つで細かな修正指示をされるときに思う(外部書類に対しても思うが)。完璧に仕上げなければならない、そのためには、悪いところを徹底的に炙り出す必要があるのだ!と気合を入れ周囲を巻き込むクソ真面目な社員を見て「馬鹿かこいつ」と思うのだ。
ミスを許さない文化が嫌いだというのは以前から書いているとおりだが、ミスにさえならないことを気にする文化はもっと嫌いだ。その代表例が「誰かが〇〇(負の発言)というかもしれない」という被害妄想。こんなことをしたら他人がこんな批判をしてくるかもしれないというやつである。
批判されてから考えればいいだろうとしか思えないのだ。起こってもいないことを想定して、それを予めカバーして完璧にしたつもりになっている。当然、そんなのは完璧とは言わない。あくまでも自分のシナリオ上で完璧になっているだけで、他人は予想もしない行動に出る生き物だからだ。
だったら最初から「他人の動きはわからない。だから必要以上に完璧を求めても仕方がないし、ミスをした時に修正すればいい」と考えればいいだけなのに、なぜそれが出来ないのだろうかと思うわけだ。数件前の記事と書いていることが同じになってきてしまったので、農園での話題に戻す。
仕事においても、私は「出来不出来」「成績」「優劣」「成果」などを考えていない。何か面白いと思うものや楽しいと思うもの、自分自身の脳が刺激されることをひたすら探している。成功しようとか、問題なく何かを遂行しようとか、そういう思考を持ったことがない。おそらく「仕事を上手く回そう」と思ったことは一度もない。
何か自分が獲得できるものはないだろうか、それこそ、農作物みたいに、成果物として手に取る喜びを感じる機会が転がっていないだろうかと目をキョロキョロさせている。そういう意味では自分のことしか考えていないが、こんな姿勢でも、とりあえずクビになったことも減給されたこともないし、他人よりもパフォーマンスが悪いと言われたことは一度もない。
部下を持ったことはないものの、自分よりも後から入社した人の資料や報告書をチェックすることはあったが、やはり私は「ミス」を探すのではなく「面白そうなポイントはなにか」としか考えていなかった。馬鹿みたいに赤を入れてドヤ顔する完璧主義な連中を性格が悪いだけのAIだと思っていたし、興味があるところに付箋を付けて「これ面白そう。なんですかこれは。教えて」っていう感じで、いつの間にか仕事じゃなくて雑談や自分の勉強になっていることが多かった。
本当に組織労働に向いていない。同じように、経費節約とか、少しでも安くとか、早くというのにも興味がない。緊急性のないものについて「急げ」と言ってくる上司には反抗し、他人の遅延を糾弾するどころか、仕方ないですねと笑って流していた。繰り返すが、こんな姿勢でも、とりあえずクビになったことも減給されたこともないし、他人よりもパフォーマンスが悪いと言われたことは一度もない。
形の良い野菜を選別することは大切なことかもしれない。けれども、より楽しく生きるには、形の異なる野菜をどうやって加工するか考えることを楽しむ力なのだ。それは日本の労働社会のブルシット・ジョブでは求められていないことであり、これが賃金に置換される構造を賛美し、猛突するから、労働社会や労働構成員とは距離をおいているのである。