妻が教えてくれた大学に関する発見
妻の大学生活も3年目の秋、通信制大学でも卒業研究があるので、卒業研究(卒論)に向けた特定テーマの深堀りが始まっています。その中で増えるのは読書。研究対象に関する文献(新書などの論文)を次々と読みまくります。自身の大学時代には無自覚でしたが、図書館は本当に学業に参考になる本がたくさんありますね。自治体の図書館がこんなにも面白い場所だとは。労働者になる前にもっと本を読めばよかったと思います。
今は妻のおかげで、妻が手に取った本は基本的に私も読むようにしているので、急速に読書量が増えていますし、頭で考える経験が倍増していることを感じます。これもすべて妻が労働をやめて大学生活を始めてくれたおかげ、いつも言っていることですが「労働しないでいてくれるおかげ」なんですよね。我慢して賃金労働してもらうより、好きなことを存分にやってそれをシェアしてくれる方が、1億倍充実していると感じます。
最近、妻が卒業研究に向けて担当教員の方との打ち合わせや顔合わせをしてきた話を聞くと、面白い発見がありました。それは、なぜ私は現役時に大学生活(勉強)を楽しめなかったのかということ。
私の大学生活は、はっきりいって無駄の極み、なんて時間を無駄にしていたんだろうと思うことばかりでした。情報系とは言いながらも総合学科、教養学科のような場所に在籍し、多くの人が文系入試で入ってくるような学科だったので、どちらかといえば勉強よりもサークル活動やバイト、何より就職で良い会社に入ることばかりに注力するような空気があり、大学生活そのものは全然楽しめなかったわけですが、それだけでなく、勉強もあまり面白いと思えなかったのです。今思えば大学の授業なんて気にしないでもっと図書館に籠って、好き勝手勉強しまくればよかったです。実験などはできないにしても、本を読んで勉強する形であれば、学べない学問なんてないですからね。
特に人文系や社会系の講義や演習(少人数のゼミみたいなもの)は、なぜ知識を吸収するために義務教育みたいに教壇から届く声と黒板の文字を追っていなきゃいけないんだろうと思っていました。(公文式で自学自習していた私にとって、大学に入ってまで、高校までのような「団体行動的」な講義形式があることに驚きました。)
面白くなかった理由…学問そのもの自体も面白くなかった理由はなぜなのか、考えられる理由は、当時の私が浅はかな実学至上主義かつ、高校時代に理系だったため、文系の勉強そのものに興味が持てなかったこと、教養みたいなものを面白いと思う感性がなかったことがあります。ここまではテンプレなのですが、妻が大学に通っているのを見て新しく分かったことがありました。それは…
大学教員と年齢が離れすぎていて教員の主義主張(学問の中身であるかどうかを問わず)に賛同できず、教員の話を一方的に聞くだけの勉強に嫌気がさしたり、面白くなくなる
というものです。自然科学系と異なり、人文社会科学系は、教員の主義主張・主観が濃く出やすく、振り返ればどの講義も「教員の趣味」だろうと思われる言説が含まれる場面がありました。そういうものに対し、主義主張を唱えるための理論武装としての勉強を嫌なものと捉える自分がいたように思います。もともと、イデオロギー対立のような構造が嫌いなので、それを強く感じる場面が大学だったように思うのです。
理工系に行けばそんなこともなかったかもしれませんが、私が在籍したのは分離融合の学問系統を専攻する場だったので、例は適切じゃないかもしれませんが、技術の話をしているときに予算やビジネスの話が出てくるような「イヤな雰囲気」を感じることが少なくなかったように思います。
今、私は大学を卒業して10年程度経過しますが、妻が大学教員と話している内容や、講義で聞いた内容を聞く限り、教える側の人間にも世代交代が起こっており、若手研究者には私たち夫婦と大差ない年齢の人がいるのだということを実感します。
○○世代と呼ばれるように、世代ごとに傾向があるといわれるように、教員・研究者など、人に教える人間も世代交代しているわけで、大人になってからの学びは「大人→子供(学生)」に対して教えるのではなく、「大人→大人」への教育・意思疎通になるので、知識レベルは別ですが、双方が同じライフステージにいるという意味では、対等な立場で学ぶことができるわけなんですよね。これはとても大きな差異であると思いますし、「30歳くらいになってから大学に通うことがものすごい有意義である」と感じる理由の一つなのだと気づきました。
同じ時代を過ごしてきた人同士で人間や社会のことを当事者目線で考え議論するということは、現役の教員と学生の組み合わせでは世代間ギャップが障壁になることが多いですが、これを少し払拭できるのが学びなおしということなのかもしれません。