DINKsの出発点、小学校
私が子無し主義になった理由を妻が面白そうに研究したり掘り起こしている。これに付随した自己分析が最近面白い。知識や知能が備わって以降に培われた「子なし主義」だと思っていたが、意外にもその要因は小学校時代の経験にあったことが徐々に分かってきた。
学校を忌避するDINKSの私。楽観的諦観主義の始発駅は小学校と言っても過言ではない。本当は幼稚園を言いたいところだが、決定的になったのが小学校だろうと思う。簡単にざっくりと、幼稚園時代から振り返ってみる。
※学校や青春時代が楽しかったり、スポーツ漫画が好きだと言うような人にはオススメしない記事です。どうか読まないでください。
いつも楽観的で明るく生きようとする今の私からは想像できないほど、私は昔の自分が見た世界や自分自身に憎しみを感じていて、楽しい思い出、仲間、笑いがたくさんあったにも関わらず、そこで出会った大人や子供の小さな挙動一つ一つに違和感を覚え、それに何年も憎悪や嫌悪を感じながら、その記憶をしまってきた。それが私が子供をほしがらない理由の正体かもしれない。私にとって学校とはこの曲が示す世界と同じなのだ。
1.時計から始まった無機質への関心
幼稚園に入院したのは4歳のときだ。いわゆる「年中」というやつだ。4歳で親と離れてよくわからない同じような子供と教員の中に放り込まれると、親に捨てられたのかと思ってしまう。
私の育った街は子供同士が幼少期に遊んだり、ママ友的な交流が活発ではなく、一人暮らしの人が中心で子供がとても多い地域ではなかったので、乳児から幼児にかけて、同年代の子と遊ぶ経験も豊富ではなかった。
その状態で幼稚園に放り込まれると、泣く、泣く、とにかく泣く。集団行動が嫌いなのは遺伝子レベルで備わっていたのか、帰りたいと主張するようになる…かと思えば、無駄に抵抗しても意味がないことを学習していたのか、私が興味を持ったのは時計だった。時計の針が〇〇を指すとき、この場から解放されると分かっていたからである。
時計の読み方を理解し、時間の長短や概念を把握した。時計の針が何分になったら〇〇なの?と先生に質問したりできるようになっていた。その頃、公文式の広告か何かで、算数のパズルのような問題を見て、公文式を始めたいと親にお願いしたら、快諾してくれて即開始となった。これが人生を変えることになる。
公文式というのは、今はどうなのかわからないが、自分でただプリント教材を自習するだけなのである。問題の解き方も考え方も、プリントに書いてある。それを読んで理解して、ひたすら計算問題や代数幾何の問題を反復して、英語のように身体で数学を覚えていくようなものである。
未就学児がこれをやると、勉強ではなく遊び感覚で学習が進む。算数ではなく、数字あそびなのだ。時計の次に道路標識、制限速度に興味を持ち、数字が時間、量、速さ、大きさ、温度などに使われていることを理解した。どんどん自習が進み、幼稚園は退屈になっていた。みんなで一斉に学習することが苦痛だった。足並みを揃える必要性を感じない。無駄だと思っていた。5歳になろうとしていた。
この頃、男児がハマるものといえば、ヒーロー戦隊、乗り物、恐竜などだろうか。私は乗り物以外にはハマらなかった。数字が絡まないからだ。乗り物が好きというのも、普通の乗り物好きとは対象が異なっていた。
普通は、電車でも車でも飛行機でも船でも、車両本体にハマることが多いと思う。私は違った。交通の周囲にあるデータや数字に興味が向かった。車であれば道路標識、国道何号線、当時の5ナンバー、7ナンバー、湘南51や相模77などである。あれがどういう規則で付番されるのかを追うのが面白かった。駐車場の構造にも関心があった。家族で出かけたショッピングセンターの立体駐車場をスケッチブックに設計図に残そうとしてばかりで、幼稚園の先生に「絵も書きましょう」とよく怒られていた。電車も、周りが新幹線や特急電車の車両に夢中になる中、時刻表の数字を追いかけていた。急行が各駅停車をどこで追い越して、所要時間が何分差とか、そういうことを考えるのが面白くなっていた。
公文式の算数は数学になり、幼稚園の終わり頃には中学数学をやっていた。幼稚園は相変わらず団体行動に順応させる教育が繰り返され、閉口していた。入院したきっかけは「アスレチックが多くて、マリオブラザーズのコースのように各アスレチックを付番して設計図を書くのが楽しいから」という理由だったので、1日で飽きてしまった。
幼稚園に入院したとき、衝撃を受けたのは、言葉で説明できずに暴力を振るう人間が存在するということだった。不良などは生息しない地元だったが、暴力を振るう児童は普通にいた。私が持っているものを私を殴ることで奪おうとする児童がいた。私はその児童に拒絶反応を示し続けたが、それが行動をエスカレートさせ、気に入らないことがあると私に暴力に出るようになっていた。私もその児童が近づいてくるだけで暴力だと決めつけ、教師に隔離させるようにお願いしていたので、教師は「お互い様」だと言った。仲良くする努力をしない君も悪いと言われ、集団生活においては暴力が正当化されることを学んだ。大声を含む子供の暴力性に異常な嫌悪感を覚えるのはこの経験があってのことだ。
幼稚園の時点で、育った環境から生じる言動のタイプが比較的顕著に出ていた。汚い言葉が4歳でも出る児童もいた。今思えば、家が良い環境ではなかったのだろうと思う。暴力を振るう児童は、腕力でしか欲求を表現できない親に産み落とされたのだろうと思う。いずれにせよ、当時は、他人に侵略行為をしない自身に対して、侵略行為を繰り返す他の児童の存在を忌避していたが、今思えば、それは私が恵まれていたからに過ぎなかったのだ。言葉が理解できる親、言葉が理解できる祖父母、言葉が理解できる人間から学ばせようとする教育環境…今ではよく理解している。落ち着いて、他人のものは他人のもの、自分のものは自分のもの、人が嫌がることをしない、などの制御ができる自分は、おそらく、どこかでそれを学んだからできたのだと。そしてそれを可能にしたのは、生まれた環境だったということを。
2.群衆生活の脅威
小学校に収監されると、苦痛は増した。運動会や学級会など「会」と称されるものが増えたのだ。「会」と「式典」は災いの証左というのが意識の中枢にあった。学校に通い始めると教科教育が始まるが、数学以外はまるでだめで、言語能力が影響する国語は人並だったが、理科、社会、音楽、体育、その他全部の教科が苦手だった。みんなで学習するというスタイルがどうしても苦手で、集団行動の中で取り組むことで、得手不得手の前に嫌悪感が勝ってしまうのだ。小学生なのに通知表で最低評価を取ることも多かった。
私が小学校で特に苦痛だったのが、音読だ。書いてあることをわざわざ口にする意味の無さ。読む速度に個人差があるのに、一人ひとり教師から命令され、決まった箇所を読む。この時間は一体何なのだろうと思った。ちょっと声が詰まったり読めない漢字があったりする者がいると、それを笑う者がいる。そういう一体感で完成する教室が気味悪く感じた。文字を読めば理解できるのにわざわざ声に出して読ませる…これはまさに、20年後の会社労働で、部下が上司に行う「レク」と同じだ。資料を読めばわかることをわざわざ声に出して、書いてあることをそのまま喋るという茶番、同期通信に執着することの無意味さを極限まで象徴した形と言えるが、これの礎が小学校の音読であると最近になって気付く。
全員で舞台に上がって朗読劇をするのも苦痛だった。何度も何度も同じ練習をして、これを完成させて一体何になるのだろうか。教師はこれを児童に強制して、本当に幸福なのだろうか。教師は自分たちがやっていること、人生の要としてやっていることが、いかに意味がないことかをまったく分かっていないと思いながら、練習に参加していた。気持ちがこもってないと叱責する教師は、気持ちがこもっているかどうかを判断する基準を生徒に聞かれた時、答えられずに誤魔化していた。これは企業のマナー研修に似ていると思う。保護者がこれに感動しているということがわかり、背筋が寒くなった。私はできるだけ親に学校の授業参観に来てほしくなかった。それは恥ずかしいのではなく、自分の親は、こんな異常な世界に感動するような人間ではないと信じたかったからかもしれない。
3.腕力の襲撃・報復の正当化
小学校に上がると、幼稚園以上に、腕力の差がつき、腕力で問題を解決する個体が現れる。腕力と言っても、ガラの悪い不良や、人を傷だらけにする暴力を振るう児童はいなかったが、転校生に対する排斥や、私のような内向的かつ個性的な人間に対するヘイト運動が活発化していた。
私は典型的ないじめられるタイプの人間で、それを早期に察していたが、同時に、理不尽を絶対に許さないという心の狭さも幸いにして持ち合わせていた。先輩に服従する後輩のように、意味不明な理屈で強弱関係を作ることを心底嫌っていた。
たとえば体育。スポーツができる人間が仕切るのと同時に、偉そうに他の人間に命令口調で喋る行為はよく見かけるものだ。「おい!ちゃんとボール見ろよ!」的なやつである。私はなぜかそういう対等関係にある人間の命令形発言(支配関係の構築)が、絶対に許せなかった。その言葉を浴びると、殺したいほどに憎らしくなるような発作が起きてしまうのだ。法を犯すわけにはいかないので、自制していたが、そういうマウントを取られたときに、私はよくキレていた。キレやすい若者というのは当時の私のことだと思うほど、沸点が低かったのだ。球技で失敗して「おい!ちゃんとしろよ!」とふざけて蹴りを入れられた瞬間に、相手に向かって突進したり、その辺の木の枝や上履きを投げつけて大声を出して大暴れすることを自制できない子供だったのだ。この行動により頭がおかしな奴と認定されることとなったが、それなりに友達はいたし、そのおかげで同級生から虐げられたりすることもなかった。
けれども、この経験は、先制攻撃を行った者はいかなる報復を受けても構わないという歪んだ価値観を私に与えてしまった。
この事件を覚えている人はいるだろうか。私はこの事件、刺された側の生徒が100%悪いと思っている。刺されるようなことをしたまでの話だ、としか思わない。過剰防衛だと非難される側面があるかもしれないが、私は、そもそも先に害を加える人間が存在しなければ不幸は怒らなかったわけだから、引き金になった当初の加害者がすべて悪いと思っている。
「殴り合いの喧嘩をしなくなったから今の子供は弱いんだ」という主張を聞いたことがあるが「凄惨ないじめをするような子供に人の心などないし、報復攻撃で殺されても仕方ない、二次被害が防止できた面がある」と解釈する私には到底理解できないものだった。
「人を自殺に追い込むようないじめの加害者に更生を求めているのはその家族や友人だけで、関係ない人間にとっては、その加害者が子供を作り、その遺伝子を継いだ子供に次にいじめられるのは自分の子かもしれないから、存在すること自体が恐ろしい」と思ってしまうのだ。
子供の喧嘩など、喧嘩両成敗だという人も多い中、私の思想は危険思想そのものなのだろう。けれども、このような子供が起こす残酷な小競り合いを忌み嫌っていたのである。
4.腕力の襲撃
(1)差別・暴力・貧困
暴力で人を支配する児童と家庭環境の関係は、遭遇するサンプルが増えるほど正の相関が強いように思えてきた。4年生の時、暴言や暴力が顕著な3年生の児童Dがいた。私達4年生に絡み、暴力を振るっていた。たとえば、歩いていると急に寄ってきて胸ぐらを掴まれるなどである。私も何度かそういう行為を受けたことがある。普段であればキレる私だが、親がおかしな奴だという情報を入手したため、逆恨みで私の家族にまで危害が加わるのは嫌と考え、静観していた。何度も絡まれるのは苦痛だったし、毎回同じことをされるだけなので、惰性になっていたが、胸ぐらを掴まれるというのは割と痛い。そして児童Dは衣類の臭いがきつかったのだ。今思えば、洗濯を十分にできない家庭環境だったのかもしれない。
児童Dの行動はエスカレートした。転校してきた私の同級生E(外国人で親の転勤で日本に来ていた)に、外国人だから生意気だという理由で絡んだのである。登校途中に待ち構えて、喧嘩を売り、いつものように胸ぐらを掴んだ。児童Dは彼を「ガイジン」と罵り、「生意気だ、国に帰れ」と言った。それがEの怒りの沸点に触れたのか、児童Dは、自分がした殴る蹴るの行為をEから数十倍にして返され、道の側溝に落とされ、傷だらけでボロボロの服を着て泣きわめきながら学校にやってきた。
この後、児童Dの暴力行為は一切なくなったのだが、その時の周囲の反応は今でも覚えている。「本当によかった。あいつ、生きてるだけで恐ろしいよ」と同じ班の同級生が口にした。私も同じことを思っていた。生まれて、暴力で弱者を平伏させ、それを生きがいにしている生き物、9歳だから無邪気で無実だといえる大人がいたら、それはよほどおめでたい考えだと思うし、私には、こういう生き物が生まれていること、これからも育って、人を支配していくのかと思うと、河川敷でホームレスに暴力を振るっているのもこういう奴の行く末なのかと思うと、いっそのこと生まれないでくれるのが一番だと、心の底から思っていた。遺伝子は連鎖する、その恐ろしさを、今ここにボロボロになった暴力魔が体現していると、理解した。
(2)陰湿性・ジャイアニズム・嫌悪・言語
性格の悪いジャイアンみたいな児童がいた。毎週のように鬱憤を晴らすために誰かをターゲットにして意地悪や仲間はずれを繰り返していた。私と当時の友人Cもついにターゲットにされた。みんなジャイアンに意地悪されないように、媚びていた。ふと、ジャイアンが「人から嫌われることに慣れていない」ことに気づき、「僕はジャイアンのことが嫌いだ」とクラス中に言ってみた。その噂は広がり、ジャイアンは鬼の形相で私と友人Cを睨んだが、泣いていた。ジャイアンは私と友人Cに嫌がらせをするようになった。雑巾を投げたり、私物を泥沼に捨てられたり、「死ね」と書かれた紙が置いてあったりした。
ジャイアンと取り巻きが特定の人間をターゲットにする攻撃は続いた。彼らが人を誹謗中傷する際によく使っていた言葉がある。それを紹介しよう。この時期に8歳の子供がどんな口癖を持っていたか想像できるだろうか。その言葉とは「親の教育がなってないんじゃないの?」である。これを馬鹿にするときの常套句のように使う輩が少なくなかった。人をいじめる人間が「親の教育がなってないんじゃないの?」とドヤ顔で言うのである。こういう子供も誰かにとってかけがえのない子供なんだから愛らしく思えと、本当に言えるだろうか。
つらかったが「僕はジャイアンのこと、嫌いだ」と言い続けた。ジャイアンは自分が嫌われることに苦痛を感じ、この苦痛を味わうくらいなら、こいつをターゲットにするのはやめようと思ったようで、私への嫌がらせは20日間で終わった。「僕はあなたのこと嫌いです」という言葉が暴力的支配よりも強い力があることを学習した。いびられながらでも「嫌いだ」と言い続けることで、人気ものになりたい人間はダメージを受ける。もしかしたらジャイアンは親の愛情を受けていなかったのかもしれない。
残念なことだが、小学校で、こうした弱肉強食の残酷さを目の当たりにし、自身も同級生も、その小さな世界に閉じ込められる中で、命の価値に差があると考えるようになっていた。選民思想と言われるが、本当にそのとおりだと思う。小学生がふざけて「死ね」と軽々しく言うことがよくあったが、私はそういう言葉を軽々しく人に言うのは、倫理観が欠如していると思うし、好きではなかった。
その代わり、死ぬ以前に、この世に生まれてくるべきではないと考えていた。10歳時点でこういう考えがあった。生まれて人に害を与えて老いて死ぬのであれば、そういう個体には生まれてこないでほしいと、そういうことを考えるようになっていたのである。生老病死ならぬ、生虐害殺である。それが鏡のように、自分自身が生存し、存在する意味を見つめる思考につながったのかもしれない。
小学校には、独自のワシントン条約により保護されている人間がたくさんいた。そして20年後、暴走する老人の既得権を死守しようとする既得権団体で働くことになり、世の中は治外法権とワシントン条約により構成されていることを感じることとなる。
(3)暴力・反出生・生殖責任
文学少年Bがいた。おとなしい児童で、誕生日は毎年、本を買ってもらうと聞いた。面白い小説の話を要約して教えてくれたりした。今で言う、YouTubeの書籍紹介動画のような、ためになる面白いコンテンツを言葉にできる人物だった。だが、少年Bは太っていて内向的だったので、マウンティング男児からバカにされたり、ふざけたノリで蹴りを入れられることがあった。男児うちの一人は、親が医師で、ややネグレクト癖がある家の子供だった。親が作ってくれた私の私物につばを吐き踏みつけられた時、手を鉛筆で刺したことがある、大嫌いなやつだった。不幸な生い立ちだから何をやっても良いという考えが嫌いだった。
ある日、朝の会が始まる前の教室で、少年Bが男児3人から暴力を振るわれ、保健室に逃げ、事件になった。この日私は115点満点中35点という赤点を取った理科のテストの追試を職員室で受けており、教師がバタバタしているときに気づいた。教師は3人の加害児童を強く叱り「同じように殴り返してやれ」と言った。少年Bは思い切り加害児童を殴っていた。殴るときに「お前らを生んだ親が許せない」と言った。少年Bには友人も多かったため、男児3人は朝の人のいない時間帯を狙った。こういう悪質な人間が、果たして生まれてくる必要があっただろうか。鉛筆で刺すべきだったのは掌じゃなかったかもしれないと思う。
少年Bも私と同じで「親の教育がなってないんじゃないの?」とよく言われていた。Bの親は20年経過した今でも、それを鮮明に覚えていると居酒屋で語っていた。自分の子供をそういうふうに言った人たちを許せないと言っていた。許せない気持ちが私にも理解できた。
(4)教師・ガス抜き・二枚舌・窒息
少年Bは私に多くのことを教えてくれたのと同時に、彼がその言語能力の高さから口にする語彙の数々が、私の「生誕懐疑論」を言語化させた。「死ね」ではなく「生まれてくれるな」と祈念するようになったのは、彼が読む本の影響も少なからずあったと思うし、ガンの原発巣を探るかのように、子供が繰り広げる惨禍の震源を追求していた。
ある日、算数の授業中、少年Bが問題を解くように当てられて、答えられずに黙っていると、教師が急に「なんでこんな簡単なことも理解できないんだよ!」と怒鳴った。私はこの出来事を一生忘れないし、この教師が社会の授業で「戦争は多くの人を不幸にする。人を傷つけることは絶対にしてはいけない」と言っていたことも忘れない。この教師が優しさを尊重しようとするフリをする一方で、声の小さい人間で鬱憤を晴らしていることも理解した。ダブルスタンダードの天守閣、それが教員なのだと。
たった一度の感情的な行為に何をしつこく語っているのかと言われるような話だが、学校という場所で子供を支配するのはこういう人間である以上、そこに家族を関わらせたくないから、子供は作らない。この教師も、私がDINKsになることに貢献してくれた人物の一人である。ものすごく感謝している。
(5)フクナガユウジ・スケープゴート
ライアーゲームのフクナガユウジをご存知だろうか。学校はゲームではないが、フクナガは物語の随所で、立場や状況に応じ、仲間を裏切って有利な立場に寝返るのである。世の中には人物が固定された凄惨ないじめやパワハラ行為が多いが、小学校はどちらかといえばライアーゲームの世界だった。上手く立ち回る人間が、自分を守るため、自分の権威を誇示するために友達をバカにして晒し者にしたりすることがよくあった。だから誰もが裏切られるし、裏切るような世界である。
他人をいじって笑いを取る「お笑い」が苦手である。人を叩いたり貶したりすることで会場や食卓から笑いが出ることに違和感しかない。友人Cはまさにそれで、急に私の悪口や根拠のない噂を流したり、私の家族の馬鹿にするようなことを時々発作のように言っていた。あれはフクナガユウジの行動パターンそのものだと後から思った。
(6)24対1で攻撃される経験
中学受験のために通っていた予備校では、2教科受験の学校を対象とする受験コースの関係からか、男性数名に対し女性30名程度のクラスだった。学力差が激しいこのクラスでは、もはや真面目に勉強する人間がほとんどおらず、女性児童の中で陰湿な嫌がらせが起こっていた。特に成績上位者への嫉妬からくる嫌がらせはエスカレートし、予備校を辞める(中学受験を独学で対応するかそもそも諦める)人間が出た。
私はあまりの環境の悪さに、その主犯となる数名に対し、陰口を言われていた女性Aに対するつまらない嫌がらせを辞めるように言ったが、今度は私への嫌がらせが始まり、授業中の暴言、物品への落書き、死ねというビラを撒かれるなど、凄惨な展開が待っていた。仲が良かった男性児童への攻撃も激化し、同志だった友人は中学受験をやめてしまった。ある日、やはり怒りが大爆発して、主犯を罵倒したところ、大泣きされ、私がすべて悪いという扱いで予備校の当局から厳重注意を受けてしまった。その後は、学級内政治を駆使してほぼ全員による群衆攻撃を受けたので、実質24人から総攻撃されているような状態となった。
もちろん、そういう陰湿行為を繰り返していた女子児童は受験には失敗し、レベルが低いだけの私立校に行き、そこでもいじめをしたりされたり繰り返していたのだろうと思うが、勉強するための予備校で、勉強ができる人を陥れようとする文化が罷り通ること、そういう人間を入塾させている構造があることに、ある意味で大きな学びを得たと思う。
5.記憶の刻まれ方
嫌な記憶ばかりが残っているわけではないが、良い記憶に対し、嫌な記憶は鮮明に残っている。その後の人生の比ではないほどに、小学校、特に「まだまだ小さな子供の世界で起こった出来事」に対する憎悪の感情が強い。子供が苦手というよりも、「子供達」とその周辺にいる「大人達」が苦手なのかもしれない。「子供達」を見ると「学校」を思い出し、「学校」が作り出した悪魔としての「子供」の集合体を思い出し、ドス黒い気持ちが沸々と湧いてくるのである。
そこに二度と関わりたくないし、学校に行き群れることを覚えた子供の集団に、二度と関わりたくないのである。大人はまだしも、子供が無邪気にすることなんて、かわいいものだろうという人もいるし、中高生のように生意気になったり性格が悪いことをするようになってからならわかるが、小学校の子供なんてかわいいもんじゃないかという意見もあるだろう。それは「見たい子供」しか見ていないんじゃないだろうか。動物としての弱肉強食や、大人の汚さの模倣犯が台頭していることは小学校でも十分に観測可能である。
「自分が被害者じゃないことについても鮮明に覚え、嫌悪している」これが妻が発見した私の記憶や感情が処理される過程の特徴であるようだ。これはなぜだろうと思っていたが、たとえば、「映像の世紀」における「悲惨な歴史を映像で観る行為」による効果に似ている。
自分なんて運が良かったほうで、そうやって、学校時代にずっと我慢して泣き寝入りしていた人が、大人になっても、その時のトラウマやハンデで苦しんでいたり、本来掴むはずだったものを掴めなくなっていることを思うと、勝手だが、物凄い嫌になるし、そうやっていつの世界も、残った人間は集団の中で、少数の犠牲を再生産しながら生きてきたのかなと考えてしまう。自分の親も、祖父母も、生き残って子孫を残したということは、無数の不都合を見て見ぬふりをしてきたのかなとも想像してしまうのだ。そこまでして、生きる意味とは、私が30年前に生まれた意味は何だったんだろうか。という感覚になるのだ。そう思いながら、このCDのジャケットにある家系図に終止符を打つ。
歴史や記憶として、今の自分自身の礎にもなり、表裏一体に存在する「正の記憶」にも満ちている過去、周りの人間への感謝もあるし、色々なものが混在する中立的なものではあるけれども、学校という場で繰り広げられた出来事が、言語化できない自分の何かしらの感情や感覚にとって、忌まわしいほどに苦痛なものであり、それを繰り返してはいけない、関わってはいけないと、脳に刻んできたのかもしれない。
私にもこういう物語がグッと来る感性は備わっている。現実世界にもこれはあると頭では理解できていて、実際にそれなりに感動したり心が穏やかになったり、失った時間を回想してその価値を感じる瞬間もあったりするのだが、どうしても、それが人生だと総括するだけのイメージを、幼少期に対して持つことができない。
このような私の本質を炙り出しながら、妻と穏やかにお酒を飲んでニコニコしながら夜を過ごしている。こんな話を聞いても、それでも私のことを好きだと言ってくれる人間が、この世にいることに感謝しなければならない。妻にとって、究極の変人であろう私だが、好奇心の対象として、人生の研究対象として、最高に面白いサンプルになれるように、これからも生きていこうと思う。
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