殺戮の女神から聖母へ―きのうマリンチェだった、わたしへ
瞳には星のかがやき、くちびるには歌。
甘く軽やかな「少女」という語感と、相反する存在としてその者は生まれた。
瞳には暗い憎しみ。くちびるには呪詛。
…はやく殺して、はやく。
一日でもはやく、わたしを。世界を。
世界の終焉を、焼けつくようにねがっていた。
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悪魔のように長く伸びる自分の影を、狂い踊りながら踏みつけた。
牢獄めいた住処へ戻る道すがら、「私」は赤々と焼け残る空一面を、真っ黒な雲が占領するのを見た。
…あ。雲の艦隊。
今すぐ降りてきて、この世界をぜんぶ焼き払ってほしい。自分もろとも。
いきている意味なんて、ない。
だからもう、ものを考えられないようにしてほしい。
一分、一秒…、苦しくてもう待てない。
はやく、ころして…。
「私」の処女はごく幼いとき、たった数百円で売却された。
それは取引だったのだと、知らぬ間に。
秘密は痛みになり積み重なり、だれにも言えないことばかりが増えた。
言ったところで、だれも信じない。
嘘つきの汚名が増えるばかり。
嘘と秘密にまみれた少女には、マヤ・アステカの残酷な神話がとりわけ心惹かれる幻想だった。
白い神の来訪で、一瞬で崩れ去る栄華の都市に、「私」はみずからの理想を見ていたのかもしれない。
マリンチェの名を、知らぬままに。
…その名を知ったのは、友人から教えられたTwitterだった。
歴史小説家の黒澤はゆま氏は、web連載でマヤとアステカ王国を滅亡させた、希代の悪女について書いていた。
たった十七歳で、実母に売り飛ばされたマリンチェ。
隣国のマヤのみならず、憎むべき故郷アステカ王国をも灰燼に帰した。
ひとりの少女に、どうしてそんなことができたのか?
賢い彼女は、マヤ・アステカ両国の言葉に通じていた。
コルテスに差し出された彼女は、この新しい征服者を魅了し唆した。
しなやかな手で、殺戮の雨を招いた。
白い神によって滅ぼされるというマヤの伝説を、文字通り実現してみせたのだった。
私は無性に惹きつけられ、食い入るようにマリンチェの物語を読んだ。
…これは、かつての「私」だ。
十代の自分が、間違いなくここにいる。
賢くも美しくもなかったけれど、つたなくも黒い呪詛に満ちていた。
自分を「売り飛ばした」ような家庭を、ひいては世界を。全身全霊で、憎んでいた。
震えがくるほど、愕然とした…。
彼女の不思議なところは、故郷を滅ぼし果てた後にたどった末路である。
マリンチェはコルテスによって人類最初のメスチーソを産み落とすと、聖母のように人が変わったというのだ。
この豹変について、はゆま氏の筆はサラッと触れているだけだが、なぜか納得させられる説得力がある。
マリンチェはキリスト教に改宗し、生母を許し、二十五歳の生涯を閉じたという。
なんという苛烈な、あざやかな生き方。
今日ではマリンチェはそれほど憎まれていないようで、現地には銅像が建てられているという。
それは彼女の改心のゆえなのか、マヤ・アステカの宗教儀式が生贄を屠る残酷なものだったゆえなのか。
…わからない。
私はマリンチェに、なれなかった。
我が子を宿すこともなく、生母を許すこともなく、聖母になることもなかった。
焔のような憎しみをかつて抱いていたことは記憶にあるが、世界を滅ぼしたいとはもう願っていない。
あの激しい感情は、いったいどこへ消えたのだろう。
そしてマリンチェは、その早すぎる晩年において穏やかな境地に達することができたのだろう。
…おそらく、マリンチェは我が子の目を見てしまったのだ。
純粋な思慕のかがやき―それはおそらく愛と言い換えられる―を、受けとってしまったからではないか。
愛は、突然降ってくる。小さな生きものの、姿かたちを借りて。
できることなら、撥ねつけたかった。
いいや、撥ねつけもした。
冷たく壁を作り、拒んでいた。
なのに、彼らはつぶらな瞳の中いっぱいに「思慕」を溢れされて、どんなに邪険に扱っても飛びついてくるのだった。
…勝てるわけがない。
なぜなら私自身も、かつては愛をいっぱいに瞳の中にたたえた幼な子であったのだから。
全身全霊で、自分をこの世に送りだした肉親を慕っていた。
愛されたから、愛したのではない。
最初から、溢れんばかりの愛をもっている。
それが、子供という生きものだから。
撥ねつけられて、床に叩きつけられて、涙にまみれて。
生贄にされ、心を切り裂かれながらも、愛していたのだ。
あの頃…マリンチェになる前の「私」自身は。
憎しみに心を焼き焦がす前は、マリンチェの胸に抱かれたような幼子だったのかもしれない。
名著というのは、ほんとうによくものを考えさせられる。
10章で描かれる女性たちの物語のうち、マリンチェただ一章のみでさえ、くり返し読ませられ、深く考えさせられる。
黒澤はゆま氏は、残酷で美しいものを描くとき、真に翼が生えたようである。
わかりやすい。
美しい。
おもしろい。
文章表現も、これ以上ない表現を尽くしているからこその完成度なのだろう。
かつてのweb連載に、かなりの加筆をして出版されたのが
『世界史の中のヤバい女たち』である。
タイトルが軽いので、購入当初は別の作品かと思っていた。読んでみたら、マリンチェの章がしっかり収録されていた。うれしい!
何度も噛み締めて、味わいたい。
他の章の魅了的な女性たちについても触れたかったが、マリンチェのことでいっぱいになってしまった。
機会があれば、また触れようと思う。
すべての女性を、女性であることの呪いから自由にしたいという、願いをこめてまとめられた一冊。
坂本眞一氏の『イノサン Rouge』と、テーマが共通ですね。
お子さんを持つ若いお父さんの、深い情愛に裏打ちされた大傑作です。
是非読んでください。