短編小説:凍える程に貴方が欲しい
冴えた空気を斬るように響く。
ひゅーい ひぃゅーい
寂しく、胸を抉ってくる声。
堪らずに耳を塞ぐ。
古く廃れかけた獣道を敢えて選び、葛は駆けた。
裾の短い着物。肌が剥き出した脛では下生えに負ける。葉や小枝が皮膚を擦る度に鋭い痛みが走る。だが、それよりも、自分を求める声の方が深く胸を抉ってくる。
薄闇の中、鮮やかな色を落葉が地に注ぐ。夜露に濡れた、それらを踏みしめると、枯れ葉と供に足を取られた。人の足では滑る場所が多かった。
獣型の方が移動は楽だが、それでは牡鹿からは逃げられない。繁殖期の今は、匂いが薄れる人型の方が逃げやすかった。
速く、速く、急いで。
村までは、あと、
どれだけ走れば――
切れ切れの息で、辺りを見回す。
葛は想う。
姉を殺した相手。
憎い。
だが、それ以上に惹かれていた。
だから、自分を欲する同族から逃げるしかないのだ。しかし、この想いは自分を無理矢理納得させる為なのかもしれない。
獣としての自分と
人としての自分。
本能は子を成せと獣の姿を強要する。繁殖期になれば自然と獣として暮らす。だが、自分は人型になれた。獣の摂理からは弾じかれたのだ。
子を成せない身体なのだ。
向かい合う現実は生き物として欠陥があるという事実。子供を残せない葛にとっては、群れでの暮らしは苦痛だ。決して蔑まれる事ではないが、仔鹿達を見る度に痛みが走るだろう。初の繁殖期の今季、獣型が解けてしまった。生まれ持っての不具だった。せめて一度でも子が成せていれば、こんな考えを抱かなかったかもしれない。
現実から逃げている。
本当は解っている。
それでも、
あの男と、もう一度――
想う気持ちは嘘ではなかった。
※ ※ ※
我が種族は元は人であった。だが、病に弱かった。憐れんだ天御門様が病から走って逃れられるようにと、脚の速い獣の姿を下さった。我らは両方の生き方を尊重し、病に弱い時期を獣として暮らすようになった。それが葛の一族の祖である。
獣として暮らす時期には人に狩られる。それも天命として受け入れる。しかし、必ずしも受け入れられるものでは無い。こと、身内を目の前で狩られたならば尚更だ。
葛は双子であった。片割れは蔓葉という名であった。彼女は既に常世を離れ、彼岸の住人になっている。生まれてから葛はずっと一緒に在った。――蔓葉が死んだその時まで。
仔鹿の季節を過ぎ、毛皮は冬に備えて厚く密度が増える頃。大人達は連れ合い探しを始め、まだ若すぎる葛達は、群れの外れへ足を延ばしていた。
赤く熟れた実を見つけ、蔓葉と向かい合い夢中で食んでいた。まだまだ身体は大きくなる。未だ成長期の双子は大人達よりも多くの食べ物を欲していた。秋から冬へと向かう季節だ。無事に冬越しする為にも身体に肉を着ける必要がある。食べる事に集中した二頭は、周囲への警戒を怠っていた。
ヒュッッ
鋭く風を切る音。驚き葛が頭を上げると、甘い実の香りに不快な臭いが混じった。危険を感じて跳び退る。少し離れてから、葛は振り返った。蔓葉が赤い実のある茂みの前で踞り動けずにいる。
蔓葉、蔓葉!
早くおいで!
大きく叫ぶが、蔓葉は動かない。どうしてなのか葛には理解出来なかった。危険も鑑みず、葛は蔓葉の元へ駆け戻った。駆け戻り、そして出逢ったのだ。
蔓葉の前に静かに佇む人。
不快な臭いの元だった。
数多の獣等の臭い。
真新しい血の臭い。
それから死の臭い。
蔓葉は小さく喘いでいた。胸に深く棒が刺さっている。それが獣を狩る矢だと知ったのは後になってからだ。真赤な血は蔓葉から細く流れて止まらない。葛は凍りついたように動けなくなった。
「お前の連れか」
男が言う。葛は黙って蔓葉を見たままだ。
「あっちに行け。ここから離れろ」
離れられたら、ここにはいない。
脚が動かないのだ。
息が荒く胸が痛む。
自分はどうしてしまったのだろう。
男が葛に近付く。そうして、葛を動かそうと手を伸ばし胴を押す。だが、葛は石になったかのように動かない。男が諦めたように溜め息を吐いた。
「悪いが連れは俺の獲物になった。これからの事は、お前には辛いと思ったのだが――」
葛には何を言われているのかが解らなかった。身体は根が張ったように頑なに動かない。だから目の前の光景を見るしかなかった。
男は浅い息を繰り返す蔓葉に静かに近付いて行く。蔓葉の脚が力無く抗う。それを無表情で見つめながら、男は蔓葉の傍らに腰を下ろし、腰の帯から小振りの刃物を抜いた。ここに至り、葛はようやく男の語った事を理解した。鼓動が不規則に荒れる。
男は、まだ、息のある蔓葉に、刃物を当てた。首の根元。血が多く、通う場所だ。躊躇いも無く、切っ先が、蔓葉に沈んだ。脈動に合わせて、命が溢れる。忽ちに、赤い池が広がって、蔓葉の、気配が、薄れて、いく――
蔓葉は去った。
葛は一声ぴぃと哭いた。
男は血が渇れるのを確認してから獲物を担ぎ上げた。命の名残が微かに男を濡らす。葛は引かれるようにして後を追った。男が自分を見た気がしたが、蔓葉とは離れ難い葛は歩みを進めた。
進んで行くにつれ、水の匂いが強くなる。男は川辺に向かっているようだった。細流が聞こえる。知っている水場とは異なる淀みが見える。しかし男はその場を避けて、速い流れがある場所を選んでいるようだ。慎重に足場を選び、納得したのか頷いてから男は獲物を川へと浸した。流れで毛皮を洗い、それから小刀でぷつりと腹を割いた。腕を差し入れ手際良く中身を剥がして取り出した。器は川へ沈め、中身は対岸へ運んで行った。
葛は蔓葉の残りと向き合った。流れに沈んだ空っぽな姿。力無く流れに揺れる耳。狩られた後はこんなにも空虚なのかと思う。ただ静かに流れに任せて。目の前のものは、もう、蔓葉とは違う。
蔓葉は何処へ行ったの?
じわじわと胸から重い物が込み上げてくる。急に奪われてしまった。足掻いているのを見ているだけだった。
ぴぃと声を出す。
応えは無い。
足元の石を掻く。蹄に感じる硬さで、起きている事は事実だと判る。色々な感情が纏まらない。
「まだ居たのか」
男の声だった。戻ってきたのに気付かなかった。それ程までに葛は混乱していた。
男からは土の匂いが強くする。それから青い薬草の匂い。向き直り、葛は男に近寄った。あきれたように男が息を吐く。
「何故逃げない」
わからない。葛は項垂れ、答えるように頭をゆっくりと左右に振った。男が一瞬顔を歪めた気がした。
「俺はこれから獲物を解体しなけりゃならない。お前はここにいても辛いだけだ」
気遣う声は優しく響いた。姉を殺した相手だが、無闇に狩るような人間ではない。だからか。葛は男がその場を去るまで一緒に居続けたのだった。
※ ※ ※
苦しい。人の身は駆けるのには不便だ。何度も足を取られては転んだ。獣であれば、山道で転んだりしないのに。忌まわしく思いながらも、決して獣型にはならない。向かうのは、あの男のいる人里だ。獣でいたらどうなるか判らない。不安は募るが恐ろしくは無かった。ただ、あの男以外の狩人が自分を射るのだけは避けたかった。
疲れた足を鼓舞して進む。
朝日が昇り靄が発つ。
日が目を射る。
目を眇める。
そうして自分が立つ場所を知った。急斜面に穿つように大きな裂け目がある。その底は全てを飲み込むように暗く淀んでいた。背中が粟立ち身が竦む。本能的に逃げ出そうと四肢に力を入れると、ふわりと身が軽くなる。人化が解けたのだ。
人とは違う軽さに葛は安堵した。しかし、危機感が増した。耳を大きく動かし音を拾う。頭を上げ空気を探る。それらの中から葛は見つけた。
あの男の気配。微かに感じる姉の匂いらしきもの。感じた根源に向け、葛は足を踏み出した。
木々の隙間を抜けて日差しが注ぐ。木々が開けた場所に男がいた。矢筒と脚絆に見覚えのある毛皮。姉の残り香。無駄なく生かされているのが嬉しくもあり、憎くもあった。
男が気付き、葛を見た。
時が凝った。
男がゆっくりと矢をつがえた。
あの男の射る矢がこの身を貫く。血が流れ体は凍える。そうして潰えた私の命を、あの男は大切にしてくれるだろう。姉を大切に扱ってくれたように。私の毛皮はあの男を彩り、私の肉はあの男の血肉となる。
これ以上の深い交わりは無い。
仔を残せない代わりに、あの男の命を繋ぐ。そんな関係で良かったのに――
いざ、矢を向けられた今になって、葛は気付いた。自分に掛けられた優しい声。あの声で自分を呼んで欲しい。粗野な同族の男と違う、厳しく優しい貴方が欲しかったのだ。
葛は男を見つめた。揺るぎ無い強い瞳。今、自分だけに向けられた真剣な眼差し。命を狩られる、そんな瞬間である筈だが、男を独占出来た事が、心底喜ばしい。
男が矢を引き絞る。葛は全てを男に委ねるようにして瞳を閉じた。
〈了〉
『カクヨム』の自主企画作品を改稿しました。
同じタイトルの作品を書くといったものでしたが「凍えるほどにあなたをください」を「凍えるほどにあなたが欲しい」と思い込んでおり、微妙にズレた流れになって、焦った作品です。『小説家になろう』へも掲載しています。
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