倫理を壊すのは革新的でも左翼的でもなくただの土人
北原みのりと香山リカの対談本で話に出てきたので覚えていた会田誠の名前でググると、想像はしていたが、倫理観の無さ丸出しの猟奇的で狂った作品群が出てきた。
女子高生が嬉々として自分の身体を切り刻む「切腹女子高生」や、女子高生がミキサーで切り刻まれ血の海に染まる「ジューサーミキサー」、手足を切断されて四つ足になった女子高生を扇情的に描く「犬」
ここまで堂々と狂ってると、誰も突っ込む気にもなれなくなる。日本の美術館員はそれを「美術」として評価していると言うし、香山リカも「アート」にまで社会思想で口に出すべきでない、と言っていた。
しかしなら「美術」ってなんだ?
確かに前衛芸術など、美術は革新性を売りとしてきたところはあると思う。しかし西洋でのそれは宗教や時代と常に共に歩んできたし、グロテスクな絵を書くにしても、それは大抵社会や権力への批判意識を含んでいる。
会田の絵を批判するならピカソの「ゲルニカ」も破壊的でグロテスクだからダメだろう、と書いている人がいた。なんでそこまで善悪の分別が付けられないのか、びっくりする。脳の構造どうなってんの?
ピカソは反戦主義の一環としてあの絵を書いた。ネクロフィリアで戦争の血生臭さに魅入られて、それでいいというつもりで書いたなら評価されなかっただろう。
会田の場合、90年代の鬼畜ブームをそのまま取り入れただけの性的サディズムかつネクロフィリアだ。そういう社会をどうにかしたいとか、批判意識は毛頭ない。
西洋美術はその大部分がキリスト教と共にあったから、革新的な画風と言えども、不都合な現実への風刺や批判意識、要するに正義感を含んでいた。
対して日本の場合はどうだろうか。不条理な社会状況を描いているアーティストは多い、だが大半が「そのまま」描くだけで、だからどうしていきたいとか、こういう社会になってほしいとか、とにかく理想が無い。
「そのまま」描くだけで、何か巨大なものと戦った気になって、既存の常識を破壊してやった!と言って、悦に入るだけだ。傲慢で自己満足。
その上、不条理な状況を批判意識なく「そのまま」描くことは、そういう状況を「そのまま」受け入れるべき、という容認のメッセージになる。人間はどんな状況にも慣れる生き物だし、当たり前になったら感覚が麻痺して何も思わなくなってしまうから、恐ろしい。
彼のインタビューを読むと、西洋が今も支配し続ける美術業界に、西洋的ではない世界観でアートを作って挑みたい、日本的なアートで西洋的世界観を壊したい、というようなことを言っていた。それで壊して作ったのが少女虐待アートって…ただの気違いやと思われるだけやろ…。
その発言からナショナリズムとくっついていることは明らかだし、支配的な西洋と闘う日本て、「鬼畜米英」の発想で、いつまで経っても日本のマッチョな人はその世界観から逃れられないんだなぁ、と。海外では全然評価されてないそうで、むしろ評価しないことで欧米かーの価値が上がりそうだ、皮肉である。
欧米の左翼は左翼で、国内の細かなジェンダー不平等には重箱の隅をつつくように批判するくせに、なぜそれと比べたらどえらいレベルの日本のミソジニー表現には声を上げないのか。
スウェーデンのジェンダー平等を推進する団体が、当国で昔から親しまれている絵本のトラが、ジェンダー平等に反するというので批判している記事があった。
このトラを批判した活動家は、ジェンダー不平等どころじゃない手足を切断された少女を扇情的に描いた会田の「犬」をなぜ批判しないのか。
もちろん知らないのだろうが、会田が展覧会を開いたフランスでも、「嫌われたり無視された」だけで、ミソジニーについて議論をふっかけられた、という話は書かれていない。
結局自分の国内の些末な表現にのみこだわっていて、それどころじゃないレベルの海外のジェンダー表現には批判しない、ダブルスタンダードだ。
最近は欧米左翼もdon'tルールばかりで、自分で何かを生み出す力を失ってしまった。破壊ばかりに精を出すのはネクロフィリア的で、むしろ日本に近くなってきている…。
壊すのは簡単で、築き上げる方が難しい。
既存の価値観や倫理を壊したところで、より良いものを作れなければ、アノミーやニヒリズムや退廃主義がやってくるだけ。19世紀末ヨーロッパの世紀末文化も、似たようなものだったのかもしれない。日本はずっとそうだけど…。
自分の欲望に任せて倫理を壊すのはロックでも左翼的でもなくただの土人だ。