パワハラ上官ナポレオン③:スルコウスキ―
ナポレオンの副官への無茶ぶりも、③まで来ました。
スルコウスキ―
Józef Sułkowski
1773 - 1798
ポーランド貴族の息子です。スルコウスキ―家は、Sulima という紋章を持つことを許された、由緒ある家柄でした。
イタリアでの活躍
92年のポーランド・ロシア戦で活躍しますが、再びポーランドは分割されてしまいます(第二次ポーランド分割)。スルコウスキ―はフランスへ渡り、革命政府の元で戦います。
96年、ボナパルトのイタリア遠征で勇敢な働きを見せ、アルコレでは自身が重傷を負いながら、ボナパルトの命を救います。
傷が癒えたスルコウスキーは(本当に?)、エジプト遠征へ同行することになります。
マルタ攻略とカイロ蜂起
途中のマルタ攻略でも、彼は上陸組の中にいました。固い岩を壊して敵陣へ乗り込み、食べる物もろくにない戦場で、ただ泉の水のみを命綱に戦ったと証言しています。
エジプトに上陸したフランス軍は、苦労の末アレクサンドリアからカイロを陥落させますが、当然、というか、カイロには住民や追い出されたマムルークの不満が渦巻いていました。
1798年10月21日。フランス軍の入城から3ヶ月後、カイロで蜂起が起きます。
→ カイロ蜂起1 ~
ボナパルトは城外に出ていましたが、混乱の只中、カイロへ帰ってくると、副官スルコウスキーにデュマに出動を促すメッセージを持たせます。
(ちなみに彼は、後に文豪のデュマの父となります)
ところで、①クロワジエ の記事で、ダマンフールでボナパルトがひどく苛々していたことを思い出して頂けるでしょうか。
アレクサンドリアからの過酷な砂漠の行軍に疲れ果て、兵士ばかりか将校らの怒りまでもが、ボナパルトに向きかけていました。
その中には、イタリア遠征で苦楽を共にしたランヌなどの将校もいました。そんな折、デュマは、仲の良い将校らを自らのテントに招いて、スイカを振舞いました。
これが、ボナパルトの嫌疑を招いたようです。彼はデュマが自分に叛意を持ち、自分の腹心たちを唆しているのだと確信しました。
とはいえ、エンババの戦い(ピラミッドの戦い)でのデュマの活躍は、素晴らしいものでした。
今、首都カイロの蜂起に臨み、ボナパルトは、疎ましく思っていたはずのデュマの力を必要としたのです。
ボナパルトの命令を受け、スルコウスキーは、15人のガイドとともに、デュマの元へ馬を走らせます。スルコウスキーは、ボナパルトより4つ年下です。
ところが、途中で馬が滑り、15人のガイドとともに、彼は暴徒に殺害されてしまいます。死骸は、犬に投げ与えられたと言います。
カイロ蜂起の中心であるエル・アズハル El Azharr のモスクへ真っ先に突入したのは、デュマでした。
鼻から血を噴出した馬に跨ったデュマは、胸を剥き出しにし、サーベルを頭上で打ち鳴らしていました。その美しさと恐ろしさに、アラブ人たちは、「天使だ! 天使が降臨した!」と叫び、逃げ惑ったといいます。
デュマは、自分の所へ来る途中、若き副官が無念の死を遂げたのを知っていたのでしょうか。(スルコウスキーは25歳でした)
年が明けると、デュマは辞職を願い出、帰国の途につきます。
→ デュマとドロミューの帰国1
ここでは、スルコウスキーよりむしろ、デュマ将軍に対するパワハラと読み解いて頂ければ幸甚です。スルコウスキーに関しては、祖国への愛ゆえに、過大な任務を引き受けたという感じでしょうか。
もう一人のポーランド貴族
ポーランドの高位の貴族だったスルコウスキー。彼は、祖国再興の夢を、ボナパルトに見たのでしょう。
彼より10歳年上ですが、後に同じく祖国再興を夢見て戦死した、ポニャトウスキーが念頭を過ります。
ナポレオンより6歳年上です。しかも、ボナパルト家なんかメじゃないほどの(ポーランドの)大貴族です。
1806年にナポレオンの指揮下に入った彼は、ライプチヒの戦いで元帥杖を授けられますが、そのわずか3日後、軍の撤退を援護していて、溺死しました。
(ポニャトウスキーは、マリア・ワレフスカに、ナポレオンの寝所に上がるよう説得した貴族の一人でもあります)
スルコウスキーもポニャトウスキーも、ポーランドの貴族です。一方、フランスの革命は、市民の革命です。その革命の果実をもぎ取ってのし上がっていったナポレオン。
なにかが、とんでもなく拗けてしまっているような気がしてなりません。
各話リンク
パワハラ上官ナポレオン③:スルコウスキ―(本記事)
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