4.大切な人の闘病
前回は理学療法士を辞めて、治療家として独立するに至った
きっかけ、「私自身の病気」についてお話ししました。
無理をし続けた5年間の蓄積。
自分の経験を通して、気づくのはやはり
「身体が資本」
心身の健康なしでは、やりたいことにも制限がかかってしまうってことを
思い知りました。
今回お話しするのは、私のこれまでに大きなインパクトを与えたもう一つの大きな出来事、「母の病気」についてです。
母は昔からとてもうるさい、、、もとい、賑やかで活発な人でした。
私がサッカーを始めるきっかけは母がくれました。
物心つくかどうかの時から、私にボールを蹴らせていました。
試合の時は誰よりも大きな声で
「わー」「いけー!」なんて叫んでいて、恥かしい思いもしましたが、
誰よりも応援してくれてました。
私が中学の時にサッカーをするために県外へ出たいと言った時も背中を押してくれました。
静岡へ渡る前に事故に遭い、散々心配させたし、
高校でも挫折しそうになっている私を心配して、たくさんぬいぐるみ(?)と手紙を送ってくれました。
だからもう心配させたくなくて
せめて自立して迷惑かけないようがんばってみたんです。
母が喜ぶから国立大に入ったし
サッカーも最後までやり切ったし
大学・専門時代は生活費と学費の負担をかけたくないから自分で工面しました。
(結婚は、、、まだまだ先になるな笑)
就活の時期になって将来を考えた時、私のやりたいことが母の勧める教師ではなかったから
そこは私のやりたかった理学療法士の道を進ませてもらいました。
といっても猛反対されて、反対を押し通した感じですが笑
けど後々に「せりか、いい仕事選んだね」って言ってもらうことになるんです。
私にとってはすごく不本意だったけど。
私が24歳のとき
普段かかってこない、父からの電話
何となく嫌な感じがしました。
「ママが病気になった、余命3年って医者から言われた」
ん?
風邪気味って言って、咳をずっとしてたのは知ってるんだけど、どゆこと?
あまりにも急な話だから頭が追いつかない。
だってまだ50代だよ?
活気のある元気な母しか思い出せなくて。
というか、私の中の母は中学生の時の記憶で止まっていることに、その時気づいたんです。
「実家を出てから、何回母に会ったっけ?」
年に1~2回帰る程度だったし、電話もバイトと部活・勉強が忙しくてしてませんでした。
「余命3年ってことは、このペースでいくと、あと6回しか顔を見れないんだ」なんて
勝手にカウントダウンしてる自分がいました。
ひどく後悔しました。
一番心配かけたし、一番応援してくれた人なのに、親孝行らしいことなんて一つもしてませんでした。
こういうのって、失うと感じた時に気づくものなんですね。
母に電話したけど、気丈に振舞う母の声に、泣くのをこらえるのが大変でした。
母の話では、「突発性間質性肺炎」という病気で、10万人に10人の確率で発症する難病だそうです。(うちの家系は難病が多い?)
完治はしない、治療薬の認可が下りてないから使えないと。
延命治療としてステロイドっていう薬を使って、自己免疫能力を落として、炎症を抑えながら、だましだましやっていくと話していました。
医療系の勉強はしていたので、状況の飲み込みは早かったのですが、
教科書で見るのと、実際に「自分の家族」が病気になるのとでは、全く別物でした。
母は家事をするだけで、息切れが強く、過呼吸状態。
外出はほぼできなくなりました。
家でじっとしていることが増え、友人との外食もしなくなりました。
その中でも楽しみを見出そうと、庭の土いじりやガーデニングを始めてみましたが、
息切れとともに筋力・体力も落ちていたため、水やりでさえ重労働でした。
そんな中で1年ほど経過して、ようやく特効薬の認可がおり、希望の光が差しました。
母も家族全員、みんなが喜んだし、治るものだと単純に考えていました。
けど、現実はそんなに甘くはありませんでした。
実家に帰って、久しぶりに会った母を見て愕然としたのを覚えています。
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