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藤沢宿のなごり、元遊郭新地の記憶

移りゆく時代とともに街の風景は変わっていく
もの。
かつての赤線、藤沢駅北口すぐの藤沢新地
今はもうマンション街で面影はありません…

赤線とは…GHQによる公娼廃止指令(1946年)から
売春防止法の施行(1958年)まで、街娼が公認とされた街。その後風俗街へ

藤沢は東海道江戸から6番目の宿場町
宿場町のあるところ歓楽街ありで、江戸時代〜
現在まで様々な変遷をたどります

ほとんど残っていない


いまの時代に新地に関心を持つ人がいると
ネットで知り、記憶を絞り出してみようと
思いました。
お盆なので、お墓参りついでに遊行寺まで
新地を抜けてみよう

戦後は、いわゆる飲み屋&風俗街だったのですが、
1970年代から80年初めころ、
昼間は子どもたちもよく遊んでいました!
何となく独特の雰囲気を感じながらも


わたしは、新地のある辰巳町の道一本隔てた
蔵前町に住んでました
辰巳町や銀座通りの商店街の子どもたちは
藤沢小学校から一緒に下校するのでよく遊びました。ちなみに辰巳町はみんな同じ住所

新地の北端には、八百熊(駄菓子屋兼八百屋)
南端銀座通り側には石井屋(駄菓子屋兼コマ屋…)があって
新地を通り抜けて遊んでました。
ちなみに石井屋で売ってたコマは大人気で
コマ回しは当時一大ブームでした!(1978年ころ)

藤沢新地を取り上げてくださった
ブログ、知の冒険さまから地図を
拝借↓ 藤沢のかつての遊郭の場所がわかります

八百熊はほぼ駄菓子屋で子どもの溜まり場。
ちなみに、この地図の橋本楼跡となってる前の道角にタバコ屋兼駄菓子屋があり、
ここも溜まり場。
タバコ屋はヤンチャなお子たちが多かった

知の冒険さんでは廃墟となった飲食店街を示されていました↓

新地の南、銀座通り側。
コマを買いに行った石井屋、
友達とよく行った仲之湯(もうないです)
ちなみにわたしは4つの時、新地で車に轢かれ、
その車の運転手さんがわたしを抱き抱えて
山川外科へ連れて行ったのでした💦


新地玄人の街です

スナックのようなところで花札🎴を
教えてもらったりしてました
仲良くしてたRちゃんの親代わりの
おばさんがママでした

あと、新地の中に銭湯があって
わざわざ夕方友だちと待ち合わせて行ったり、
迷路のような飲み屋街でドロ巡など
してました! 飲み屋街小鳥の街のおかげで
鳥の名前を覚えたり😅
ちょっとスリリングな雰囲気は
感じていましたよ💦
トルコ風呂とはなんぞや?と
おじいちゃんに尋ねると、「ありゃ、
昔の連れ込み宿だよ〜」と返され、
子どもの頭の中は???だらけでした😅
旅館と称する宿もまだ数軒あった
気がする…

酉の市も楽しかった!
屋台が出て、みんな熊手を買いにいく

酉の市イメージ画像

まだ少し縦格子の二階建て木造家屋が
八百熊並びにあり、その横の三味線、琴屋も
風情がありました

イメージです。こんな感じ

今思えば、粋な感じもありました✨

でも付近のサラリーマンは客引きをかわすのに
大変な様子も見受けられ・・・
また、ここがどうゆう所かわかってくると
次第に足を踏み入れなくなりました…

しかし、日本がバブルの好況に向かう頃から
様子が違ってきます…

新地で働く女性は外国人が多くなって
いきます フィリピン、中国、ブラジルかな…?
街のゴミ出し注意看板は、英語、中国語、
ポルトガル語が足されます

地上げ屋なんかも横行していたのかな…
火事も多かったようにおもいます

気づくと一帯はマンションが乱立状態に…

当時を振り返り、街の変貌を
郷愁とともに寂しく思うのでした。

マンション乱立はどうなのか…
行政は何もできなかったのだろうか…
寂れた小鳥の街。いまは跡形もない

マンションの駐車場にひっそりと
祠が残されています


古井戸?昔はうちにも井戸があったな〜
駅前開発が進み枯れてしまった


ここもよく通った路地。近くに友だちが住んでた。
坂になってるけど、遊郭時代は土手だったかな?
抜けると魚屋(魚保、銀座通りへ移転)、八百屋が
ありました。今はマンション
マンション群に沈むかつての遊郭藤沢新地
低い茶色のライオンズマンションが
かつての橋本楼。
新地のマンション化は、このマンションから始まったように思う…


知の冒険さま、取り上げていただき、
何か嬉しかったです
そして、とても勉強になりました↓

子どものころお世話になり、今も新地で商売をしてるママさんと先日立ち話。
近頃、新地を調べてますとやってくる方々がいると言っていました

さて、新地を抜けて、遊行寺(清浄光寺)までお墓参り!
遊行寺までのお散歩を書くつもりが長くなってしまったので、また別日に書きます

遊行寺については↓
藤沢は時宗遊行寺の門前町

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