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吉野ケ里 魏志に無いからロマンだった

一つの結論

吉野ケ里を想起させる単純な文字はなかった。
邪馬壹国の位置もわからない。

魏志倭人伝や山海経にもその他の史書にもない。
それらしきものが見えるだけ。

可笑しい

当たり前。 何十年と論争のタネになっているんだもん。 「ここに掲載されてました」なんて事がすぐ判明したら、それこそ論争の火種。渦中の人になるところだった。

ロマンを追い求めてると公言しておきながら何ともお粗末。 ド素人そのもの。(*´ω`*)

縄文から弥生から古墳時代

遺跡には当時の社会の暮らし、在り方が時を経て見せてくれる。その姿を有り様を私たちはまだ見つけられないでいる。いや、今出ている見えている遺跡が教えてくれていて本当は私たちが早々に気づかないといけないのかも。

今の論争は仮説の大風呂敷を広げるだけ広げて数年単位で全国の土から掘り出された遺物の鑑定の結果が広げた仮説の後ろ盾となり真実味を帯せて行くもの。九州説に畿内説。代表的な両者の論争がそう。

奈良、佐賀、福岡その周囲にあるはず。
では主役の卑弥呼や邪馬壹国の敵やライバルといった國や部族はどこだろう?
それも、判明してはいない。あっても仮説の域。

鏡にしても三角縁神獣鏡や内行花文鏡の最後の所持者が誰であるかも仮説の域を超えない。
小型の鏡も数百枚出土するも確証するにもまだ時が必要。

武器類か宝飾品かで男性女性の別を仮説するのみ。
(当時ジェンダー的意識も無いとも言えない)
火焔土器なら縄文時代、青銅器が出れば弥生時代、埴輪が出れば古墳時代。その変遷の過渡期が地域により数十年数百年の混在期も発生する。

日本人の言葉、漢字の使い方の常識は数十年の文化生活の変化によって意味合いが変わることを身近に感じると古来の生活交流の流行りや廃れも重層的にかつ弾力的に変化して受け継がれているんだろうと感じれば二千年の時を経るまでに衣食住の変遷の有り様と等しく関連性を持って移ろいゆくのではとも感じてしまう。

素人だからこそ出来ること

様々な論説を開いて読んでいくと時系列に則りその分野の流れを継承するあまり硬い論調が大半を占める。 
極端で過剰なデフォルメも否定はしないが(想像の刺激になるので)当時の暮らしの低層と祭司、政を司る中心層らの汗や息づかい、工夫や努力、老若男女の社会的役割をもっと鮮明に浮かび上がるような肩の凝らない大風呂敷を広げること。

誰かが言っていた。
「風呂敷はその人の頭に無いものは広げられない」
「だから広げられるだけその人の思考は深い」

魏志倭人伝が全てを網羅していたならばこれまでの関連するロマンの幾つかは味気ないものになっていたろう。
その現況に感謝しつつ
「現代人の風呂敷はその程度か?」と魏志が大あくびを開かさぬよう当時の肌の温もりを感じさせるものを大きく広げられるといい。
(*ˊ˘ˋ*)。♪:*° カ~ン。


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