じゃんけんの極意
自己流の鍛錬を既に終え、他の一門のじゃんけんの必勝法を知るべくこの記事を開いた努力家の読者には申し訳ないが、別にじゃんけんの戦法を語ろうなんて気は毛頭ない。これはただジャンケンを通して人生を解ろうとした暇人の独り言に過ぎない、もちろん弟子入りはいつでも受け付けているのだが。
うちの家庭はロシアに匹敵するほどの独裁政が敷かれており父親の粛清に逆らえるものなどいなかった。父親の機嫌を損ねないため、波風を立たせないよう生活していた小学生3年生の夏、その事件は起きた。
DSで対戦をしていた僕と兄はひょんなことから喧嘩になり、部屋で騒いでいた。10分ほど喧嘩をしたところでこちらに向かってくる足音に気が付いた。まずいと思った僕らは直ちに休戦協定を結んだが、時すでに遅し、バタンと扉が開いて、次の瞬間には父親が怒鳴りながら入ってきた。
母親が不在だったのも不幸の1つだった。元々機嫌が悪かったのか知らないが、何故か半年に1度レベルの怒りを見せていた父親を見て、「これは1ヶ月ゲーム禁止か最悪家の外に出されるくらいの罰はあるな。」と僕は思った。
しかし一通り怒鳴り終えた父親からの裁定に僕らは耳を疑った。
「今からお前らのどっちかのDSをぶっ壊す。じゃんけんをしろ。」
人間が普通に生きていたらおよそ聞くことの無い台詞に僕らは絶望した。
そんなことはしなくても他に解決法は無数に存在するに違いなかった。「な、なんで」一応反論はして見たもののこうなった父親はてこでも動かない。一通りの言い訳をした僕は諦めつつも悟った。
勝つしかない、このデスゲームに。
僕は決意を固めた。兄もこの状況を理解したらしく、僕らは握り拳に力を入れ、脳をフル回転させ始めた。幸い僕には統計が味方していた。ほとんどの時間を一緒にすごしているのだ。これまでの経験を通して考えると兄はチョキをだす確率が以上に高い。それは向こうも分かっている。ならば僕が出すべき手は僕のチョキ読みグーを読んだ、兄のパーを読むチョキだ。
しかし、結果は残酷だった。
僕の全体重と希望を乗せたチョキを無惨にも返り討ったのは兄のグーだった。
ざわ⋯ざわ⋯。
呆然と佇む僕を見た兄の顔は「俺が蛇に見えたか?」と、確かにそう言っていた。この大事な一戦で兄は僕の思考の1つ上をいった。
敗北を理解した僕は泣き始めてしまった。多分勝負に負けた惨めさもあったのだろう。今思えば兄には本当に申し訳ない。鬼の目にも涙、我が家の兵藤は号泣する僕を見て観念したように「わかった。どっちも壊す。」と言い、謎の解釈で2つのDSをどこから持ってきたか分からないとんかちで破壊した。
壊れた2つのDSと、それを見て世の理不尽を痛感して、泣き出す兄を見て僕は決意した。
もう二度とじゃんけんでは負けない、と。
思えば子供の決め事などじゃんけんでほとんどが決まる。遊び事の鬼決めや給食のおかわりもそうだ。じゃんけんを制すれば世界を制することができるのだ。
次の日から僕は些細な決め事のじゃんけんでさえ全身全霊で臨んだ。相手の手を読み、最適解を出すため全力を注いだのだ。
するとどうだろう。中学生になるころには、所詮運と言われるじゃんけんで僕は勝率およそ7割を叩きだし、決め事の大半を支配できるようになっていた。実際じゃんけんをオンラインでするだけのアプリでランキング上位に名を連ねたこともある。
その経験を鑑みて僕は思う。負荷のかかった環境にいてこそ人間は強くなる。コンクリートジャングルで暮らすよりも、死と隣り合わせにある環境で暮らす部族の方が身体能力が高いのは当然の結果だ。
色々な負荷のかかる環境に身を置く方がきっとたくましく育つのだろう。それは勉強でも、運動でもそうだしきっと人間力でもそうなんだろう。
少なくともじゃんけんが決定権を失うまで、僕のじゃんけんで鍛えられた右拳は、そこらのヤンキーよりずっと強かったに違いない。