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型破りなドリフト教育と見せかけて。

Children find everything in nothing; men find nothing in everything.

ジャコモ・レオパルディという19世紀のイタリアの哲学者の言葉だそう。カッコよく訳せば「子供は無に全を、大人は全に無を見る」。分かりやすく訳せば「全く何もない状況でも子供の目にはあらゆるものが見えているし、大人はあらゆるものが目の前にあってなお、何もないと言う」ということ。

桃。じゃがいも。恐竜の雲。9月で3歳になる仙豆は、最近よく、目に見えないものや、こっちは見たことも想像したこともないものを、小さな手で大切そうにエアパスしてくれる。頭がカチコチである大人の僕は、野暮で薄汚れた言動を取らないように必死である。

僕は俳句が好きだ。自分ではほとんど詠んだことがないので偉そうなことはひとつとして口にできない立場だが、俳人たちが俳句を説明したり直したりするのをメディアで見るたび、はぁ~とか、うっわぁ~とか、やっべとか言っている。

俳句で大切なのは「取り合わせ」だという。俳句番組で有名な俳人の夏井いつき先生曰く、「LINEの返りが遅くなった」という心情に、季語「春みぞれ」を取り合わせて

「春みぞれ LINEの返りが 遅なった」

とやるのが良い俳句だと。わかる。例えば「愛」と「薔薇」を取り合わせたり、「落ち葉」と「失恋」を取り合わせたりするのは、いかにもベタで平凡でつまらない。Aと言われてほとんどの人がBやCを発想するところでひとりZを発想するのが天才が天才と評価される所以だというけど、それにも通じる。

写真も同じよね。

子供とパソコンという、少しだけ違和感のあるものを組み合わせると、絵に個性が出たりする。「少しだけ」の塩梅が大事なんだけど。記事トップの写真も、平凡な景色の中で、左手の小さなさくらんぼが効いてるなと感じて撮ったもの。

よく言われることだけど、日本人は自ら型にハマっていこうとするところがある。分かりやすいところだと、就活生の服装の画一化。これはやっとメスが入り始めたところ。

あとは例えば就職の集団面接試験などで、面接官の「好きな邦楽は」という質問に1人目が「ビートルズです」と答えると、2人目以降は、心の中で「あれ?」と思いながらも、最初の受験者の答え方に合わせて「カーペンターズです」「ボンジョビです」などと返答してみんな揃って試験に落ちる、なんてことがあったりする。型にハマりたいというより、出る杭になるのが怖いというのが本質かもしれない。

仙豆はまだ、ベタも型も知らないステージにいる。天才にはなれなくても、「春みぞれ」と「返事が遅いLINE」を取り合わせるくらいの頭の柔らかさや個性を持った人にはなってもらいたいと思う。他の人たちが「何もないじゃん」と言っている状況でなお、色々なものが見えている目を、息子たちには持っていてほしいと思う。

ただ同時に「型」を知らなければ「型破り」はできない(←この書き方がベタなんだけど)。そこのバランスは疎かにしない。

我が家はいわゆる早期英語教育をやっていて、今の仙豆は、日本語よりも英語が母国語になっている。日本人の型を破っている状態だ。でも最終的には「日本語が母国語である」ところへランディングさせたいと思っている。今はドリフトで走っているけれど、カウンターは密かにしっかり打っているイメージ。

僕が担当した英語の授業で、30歳かそれ以上年上の男性に「先生は英語も綺麗なのに日本語も綺麗。だから信じられる。大抵の人はどちらかが疎かになっている」と言って頂いたことがあって、思ってもみなかった角度からの褒め方だっただけに心の中が長岡の花火大会状態になった(行ってみたい)。

そういえばさっき母ちゃん(妻)が「あなたはどんな話でも多角的に見て語る人」と言ってくれたんだった。よし、と思ったよね。

英語にしろ何にしろ、人として目指すのはそういうバランスだし、仙豆とオズ(次男のHN)にもそれを上手に伝える程度のことはしたいと思う。

型を知った上で、無から全を見いだせる大人に成長できるよう、親として心がけていきたい。

明日は黒い点を見せて「これなあに?」って聞いてみようかしら。



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