『劇的』なことってそんなに大切ですか?

映画レビューを読んでいると、そう思わずにいられない

我々は自己投影はしても他者である

 最近、何本か映画や作品のレビューを投稿させていただきました。

 一定の数のスキをいただけているのは、素直に嬉しい。

 そしてそんなスキをいただけたからこそ、自分が持っていたモヤモヤを言語化していきたいと思います。

 まずはこの2作品から。ともに山田尚子氏が監督を務められたアニメ作品です。
 私はこの2作ともとてもスキだと紹介しましたが、世間の評価と若干のズレを感じるんです。

 私は元々作品を見るにあたっては、近しい人間以外の他者の評価をさほど気にしない人間ではあるのですが、それにしてもレビューで『ガッカリ』『期待外れ』という声を目にしてしまうと、ついつい「なにおう!」とムキになって読んでしまうんです。

 これも全てiPhoneからPixelに乗り換えたのが悪い。自身に興味のありそうな記事や投稿をAIが勝手に拾って通知してくるんですもん。そりゃあ見るって。

 いや、作品に対する評価は人それぞれあって良いと思うんですよ。それこそ私は信者という人間が一番キライな人間なので、信者よりはアンチの言葉に耳を傾けがち。

 しかし一点だけどうしても気になってしまうのは、『何も為さない』『何も起きない』『淡々と』という評価。

 それだけは、どうしても見過ごせなかった。

 きみの色に関しては、どの時代にも通ずる思春期特有の葛藤に重きを置いた日常作品なんですよ。

 何か劇的なことが起きて欲しい!

 バンドを志すからには武道館を目指せ!

 思うのは勝手ですが、彼女たちがその選択をしなかったから期待外れとするのは、少し浅慮がすぎませんか?と私は思います。

 ここで私が最も声を大にして言いたいのは、私達視聴者は登場人物に思いを馳せたり自己投影する部分はあったとしても、その当人にはなり得ないということです。

 GardenofRemembranceに関しては短編ということもありそれほど低い評価は見られなかったけれど、良くわからないという意見はたまに見かけました。

 私個人としては、無理して分かろうとしなくて良くない?と思いますけど、レビューを投稿するからには『分からない』は逃げですよ。
 自分なりの解釈を考えることから逃げていると私は感じてしまいます。

結末はそれほど重要か

 結局この作品は何を言いたかったの?と答えを求める人が本当に多いんだなあと市子のレビューを見てもそう思いました。

 エンディングで市子が海(?)に向かって歩いていくシーン。私はあの終わり方良かったと思うんですけどねー。

 市子としての生涯を閉じたとも解釈できるし、また新天地で市子として生き続けるともとれる、人の解釈次第で答えが異なりそうな結末って私大好きなんですよ。

 また何よりも、終わり良ければ全て良しは私の中の辞書には掲載されていません。
 むしろ過程にこそ意味があり、美徳が詰まっていると考えます。

 物語の結末というのは確かに重要なファクターではあると思う一方で、じゃあそれまでの60分ないし90分つまらん映像を見せ続けられて、最後の5分だけ素晴らしい出来の作品に出会ったとして、あなた耐えられますか?と。

 断言します。私は絶対に耐えられない(笑)

レビューをするからには言い切れ

 GardenofRemembranceの部分でも書きましたけど、作品レビューというものは親作品があってこそ成立するものです。

 否定的な意見ならそれはそれで全然良いんです。だけど良く分からなかったとか、作者は何を考えていたのでしょうか?とあの誰にとも分からず投げかけるスタイルで共感を得ようとする人たちは無責任だなあと感じます。

 その作品を楽しんだ(楽しめなかったのかもしれませんが)人間として責任を持ってレビューを書くべきです。

 特段私はアニポケに詳しいわけでもなんでもありません。それでも10ものスキをいただけたのは、自分が良かったと思えたところを書ききったからだと思っています。(コンテンツとして引きが強いというのはありますが)

 書ききれないのなら、レビューはすべきではない。最低限☆をつけて終いにすればいい。

 その中途半端な自我を捨て去るか、突き詰めて自我を解放させるか。どちらかにしましょうよ。レビューをする時ぐらいはね。


 まあ私は中庸という言葉が好きなので、どっちつかずの意見も好きなんですけどね。
 そのどっちつかずの中にも哲学を感じられれば、それはそれでその方なりの解釈・個性だと思うんです。

 決まり切ったことだけ書くのではなく、自分がどう思ったのかを素直に書いていきましょうよ。

 勿論人格否定など常軌を逸する行為は、絶対あってはなりませんけどね。


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