戦前の運動会プログラムの変化を追ってみましたー特に変わったのは開会行事
長年戦時下の資料集めをしていますが、運動会のプログラムなんてものは、なかなか出てきません。それでも、年代が違ういくつかのプログラムを入手しました。比較するなら同じ学校のものでといきたいところですが、そうもいきません。それでも何か時代の変化を感じられるか、4枚のプログラムで比較してみました。
入手したのは、いずれも長野県関係で以下のものです。
①1933(昭和8)年の小諸尋常高等小学校・小諸実業補習学校・小諸青年訓練所の「校庭運動会次第」
②年代は推定で1936(昭和11)年の長野県小諸高等女学校「第十壱回秋季校庭大運動会」
③1938(昭和13)年の長野県師範学校学友会「第五十一回記念運動会」
④1941(昭和16)年の上田市各国民学校・上田実科高等女学校「校庭運動会次第」
では、順に見てみます。まずは①小諸尋常高等小学校・小諸実業補習学校・小諸青年訓練所の「校庭運動会次第」から。
種目の中から軍事色のものを探しますと、「肉弾三勇士」「婦人従軍(遊戯)」「要塞攻撃」「武装競争」「軍艦三笠(遊戯)」「戦闘教練」といったところです。武装競争と戦闘教練は青年訓練所が入っていることで行っています。その他では、来年入学児の「旗拾い」や騎馬戦、大玉送りといった、現在でも定番の競技がけっこうそろっています。
次に、1936(昭和11)年実施とみられる小諸高等女学校「第十壱回秋季校庭大運動会」を見てみます。
女学校ですから、教練系統のものはありませんが「日満提携」と時局的な題を付けた競技、「軍艦マーチ」「此の一戦」と軍隊を意識させる競技名もわずかにみられます。ダンスが目立つのがまだまだ余裕を見せているようです。スプーンレース、綱引きといった定番の競技に加え、バレーボールが入っているのが面白いところです。
では、日中戦争下の運動会はどうでしょうか。長野市にあった長野県師範学校(現・信州大学教育学部)学友会主催の「第五十一回記念運動会」から。表には配置図があり「傷痍軍人戦死者遺家族席」が来賓席の隣に設けられていて、日中戦争の影響を感じさせます。
師範学校の運動会ですので、付属の尋常小学校との合同となっています。軍事関連的なものとしては「ヒノマルノハタ(遊戯)」「建国体操」「露営の夢」「白兵戦」「戦闘教練」「ヘイタイサン(遊戯)」「国旗競争」「愛国行進曲(遊戯)」「大隊教練」といったところでしょうか。学友会の自主的な計画であり、戦争の影響はあってもまだ少ない感じでしょうか。それでも、「建国体操」が登場し「愛国行進曲」が採用されるあたりは時世を感じます。
それでも幼稚園から師範学校生まで全員参加の遊戯「鳩」があるあたり、まだまだ独自性を残している感じです。1935(昭和10)年の長野師範学校運動会の写真がありましたので、雰囲気を感じていただければと思います。
では、最後に1941(昭和16)年の上田市各国民学校・上田実科高等女学校「校庭運動会次第」を見てみます。この4月から、尋常小学校は国民学校と改称されているのが一番目立つ変化です。また、来賓席の隣に遺家族席を設けてあるのは1938年の長野師範学校と同様です。
軍事絡みや精神鍛錬の関連を拾いますと「兵隊さん」「愛国行進曲(小学校用)」「日の丸行進」「薙刀」「奉祝歌」「愛国行進曲(女学校用)」「大日本女子青年体操」「剣道基本動作」あたりでしょうか。特に目を引くのが「薙刀」で、1936(昭和11)年実施とみられる小諸高等女学校の運動会では見られません。また、逆に当時はあったダンスはー国民学校との合同とはいえー掲載されていません。愛国行進曲も参加者を入れ替えて3度実施しています。だんだん、戦時下の精神教育が浸透してきた感じです。
◇
そして、比較していて気づいたのが、開会式の行事の変化です。学校がそれぞれ違うので、純粋な比較ではありませんが、日中戦争を境に変化したと思われますので、ご紹介します。
まず、1933(昭和8)年の小諸尋常高等小学校・小諸実業補習学校・小諸青年訓練所の「校庭運動会次第」の開会式は以下の通りでした。整列、国旗掲揚、唱歌(君が代)、開会の辞となっています。1936年と推定した小諸高等女学校の場合、集合・君が代合唱・開会の辞となっています。
これが、日中戦争開戦後の1938(昭和13)年と1941(昭和16)年では、いずれも「宮城遥拝」が入り、1941年はさらに「感謝黙祷」が加わっています。明らかに、戦時下にあっての引き締めの影響と考えて良いのではないでしょうか。
こののち、運動会はどうなったでしょうか。いずれにしても、皆が運動を楽しめるような環境ではなくなっていったでしょう。そして師範学校などの学友会といった自治組織は1942年には「学校報国団」という名の、校長をピラミッドとした上意下達の組織に改変されています。
1943年の学徒出陣、1944年半ばからは国民学校の集団疎開や中等学校以上の勤労動員、1945年の国民学校初等科を除いて学業停止と、大きく変貌していく中で、運動会どころではなくなったでしょう。戦争や思想教育は、こうしたイベントも見逃さず利用しつくしていくということ、よく覚えておかねばなりません。そして変化の兆しには声を上げていかねばならないでしょう。