中部軍司令部監修の月刊誌「国民防空」を読む(下)ー危機感が出たころは資材不足
財団法人阪神航空協会内に事務所を置いた国民防空出版協会が、1939(昭和14)年7月から少なくとも1944年9月まで発行を続けた月刊誌「国民防空」の1943(昭和18)年6月号を紹介します。
1943年はガダルカナル島からの撤退(2月)に続き、山本五十六の戦死(4月18日)、アッツ島の玉砕(5月29日)と、戦局は悪化の一途。陸軍省の「撃ちてし止まむ」のポスターも悲壮感を漂わせ、たばこは大幅値上げ(1月)、英米語の雑誌名の改変、野球用語の日本語化決定(3月)など、次第に生活や社会に余裕の無さが一気に感じられるようになった年でした。
そんな中、物資不足もその程度が増し、国民防空6月号も前年11月号に比べて本文が30ページ以上減って56㌻に。16ページほどあった広告ページも半減し、小判の広告が各ページに散っています。このため、従来はあった小説や座談会がなくなり、かえってシンプルになった印象です。
一方、精神面での指導は相変わらず。戦局の悪化がよけいに精神主義を強調する側面も。ミッドウェー海戦で戦死した山口多門の話題は、山本五十六戦死の発表前に紹介され、衝撃を和らげる役割を果たしています。死してもなお、活用されるのです。
陸軍大本営報道部は、部長談話でドーリットル空襲の日に合わせて概要を発表。「数機撃墜」とし、発表当時は「九機撃墜」として「九機じゃなく空気」とからかわれたのを反省してか、しかし全機逃したというのも面子がつぶれるとして数機に。そして今度来たら全機撃墜と息巻いています。そして、ドーリットル隊長は東京上空を避けて逃げたという嘘の話を入れて哄笑しています。
しかし、ほかの記事は実践的な内容が多く、空襲で生じる傷と救急処置、隣組での指揮要領、座布団兜の作り方と効果、などが目を引きました。
また、コンクリートなどの資材不足で、屋外に開放型の退避壕を整備する方針を正直に伝えているほか、大阪の地下鉄は空襲下で閉鎖すると宣言しています。
そして、「消防講座」では、軍の防空でも必ずうち漏らしが出てしまうとして、民間人による防空との両輪が必要と強調。根拠法の防空法で防空関連の諸活動は義務であるとして「逃げるな!火を消せ!」を徹底させていました。このため、多くの死傷者が生じるのですが、法律によってとどめさせられた住民に対し、戦後の空襲被害者訴訟では「受忍限度」として、その被害は一切、補償されていません。
戦争において、国は国民を守らない。勝手に始められた戦争に巻き込まれ、勝手に作られた法律に縛られ、従うしかなかった庶民の犠牲に、国は当然のこととして放置している。今後、もしこうした事態に陥ることがあったとしても、やはり同じように「受忍限度」として見捨てるのでしょうか。そうさせないのが、一番なのです。戦争の回避を強調する所以です。
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