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日清戦争を描いた錦絵で新たな発見ーモリナガ・ヨウさまの「迷宮歴史倶楽部」のおかげで知見が広がりました
このたび、モリナガ・ヨウさまのご厚意で、ご本人から「歴史群像」に連載されておられた「迷宮歴史倶楽部」をまとめた本「迷宮歴史倶楽部 戦時下日本の事物画報【新装版】」をご恵贈いただきました! この感激、この場で感謝申し上げます! モリナガさまは、ワールド・タンク・ミュージアムの説明書に入っていた挿絵で生身の兵器の姿を描かれていたのがとても面白く、ファンになっておりまして、その憧れの方からのご寄贈を受け、本当にありがたく、かたじけない思いであります。
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風船爆弾や松根油、現在も残る掩体壕などなど、さまざまな事物の中で、日清戦争当時の日本軍の軍装の話題も載っていました。
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すると、古い錦絵に描かれていた日本兵の姿に、わらじ履きを発見したというのです! それも何枚にも。そしてモリナガさまは写真を調べ、確かにわらじ履きの兵隊がいて、画家が適当に江戸時代の流れで描いたのではないことを突き止められました。
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そこで、という訳ではないのですが、展示できればと日清戦争の錦絵を探していたので、それらしいものを発見し、このほど入手しました。横幅70センチ、縦36センチの大判錦絵で、大竹誠直画「平壌激戦 我軍大勝利之図」です。
日清戦争は1894(明治27)年7月25日に開戦、1895年4月17日に講和となり、下関条約を結んだものの、三国干渉で遼東半島は租借をあきらめ5月5日に還付することになったのは有名な話です。そして朝鮮の平壌の戦闘は1894年9月15日に1日で日本軍が清国軍を降伏させています。この錦絵は発行日を9月までしか入れていませんので、イメージの高い予定した錦絵の可能性がありますが…
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一番手前に大きく描いた兵士は、しっかりわらじ履きでした! ほかの錦絵も見ましたが、わらじ履きが確かに数多くあり、背中に予備を縛り付けている絵もありました。
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それにしても、この錦絵はちょっとどぎつい(閲覧注意)。
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さて、清国との戦争なのに、なぜ朝鮮で両軍が激突しているのか。
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実のところ、日本は国防と利益のために、朝鮮半島を支配下に置くことを、明治維新以後、視野に入れていました。1875(明治8)年には、無断で朝鮮の海岸を測量していた日本の軍艦が飲料水補給という名目で首都のソウルに近い江華島に近づいたところ、砲台から攻撃を受けたので、日本軍が砲台を占領する「江華島事件」が発生。この処理の過程で、当時清朝の属国で鎖国主義をとっていた李氏朝鮮に対して3港の開港、居留地の設定、領事裁判権、輸出入品の無関税などの「江華島条約」を結ばせます。ペリーが軍艦で圧力をかけて日本に不平等条約を結ばせた手を、そのまま使っています。
其の後も日本側に死傷者が出た1882(明治15)年の反日暴動「壬午の変」の処理で「済物蒲条約」を結び駐兵権を獲得。清国の兵は元々駐留していたので、朝鮮において両国がにらみ合う形となります。
そして1894年に起きた「東学党の乱」の鎮圧を名目に日本は出兵。乱は鎮圧されていましたが、とにかく強引でも清国と戦端を開くため、日本軍は朝鮮王宮を占領して朝鮮政府に清国軍の撤兵要求などの承認を迫ります。朝鮮政府は抵抗するすべもなく、日本の要求を呑んで清国軍の撤兵を日本に依頼せざるを得なく、日清戦争が始まったのです。
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錦絵にも描かれていますが、国土が戦場になると大変なことです。インフラは破壊され、人々は追われ、田畑は荒らされ、社会の各種の機能も停止し、庶民が苦しむことになるのです。朝鮮の併合まではさらに日露戦争を挟みますが、日本の朝鮮への干渉は、近代日本の歩みと軌を一にし、そのたびに朝鮮の民衆を苦しませてきたこと、忘れてはいけないでしょう。
そんな歴史を、実は中の人も深くは知らなかったので、高文研の「東学農民戦争と日本」を購入しておりましたが、なんと! 高文研さまから「新版」をご恵贈いただきました! この場で厚く御礼申し上げます。こちらも読み込んでから、またご紹介したいと思います。
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