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戦艦大和の「水上特攻」と、大和艦長・有賀幸作をはじめとする長野県民の犠牲者たちー死も活用される戦争の事実

 大平洋戦争も1945(昭和20)年3月26日に硫黄島が陥落し、4月1日には、いよいよ沖縄本島まで米軍が上陸してきました。日本海軍の連合艦隊司令部は3月26日、沖縄方面の米軍に対する航空作戦を発動。そして連日、航空特攻や航空攻撃が行われる中、4月6日からの特攻作戦「菊水一号作戦」に合わせるように、第二艦隊の戦艦大和、護衛の第二水雷戦隊=軽巡洋艦矢矧、駆逐艦冬月、涼月、磯風、濱風、雪風、朝霜、霞、それに初霜の、合わせて10隻に対し4月5日、沖縄海上特攻が命じられました。
 
 この時の戦艦大和の艦長・有賀幸作大佐(戦死後中将)は、長野県上伊那郡朝日村(現・辰野町)の出身でした。1944(昭和19)年11月25日に大和艦長に就任し、この時長男に対し「大和艦長拝命す。死に場所を得て男子の本懐これに勝るものはなし」と手紙を送っていました(「大和ミュージアム常設展示図録」大和ミュージアム・より)。大本営発表とは違う海軍の実情を知り、ひた押しに来る米軍の威力を感じていたことは確実で、大和健在のまま戦争が終わるとは毛頭考えておらず、また、この艦と運命を共にする決意を既に固めていたと思われます。

 6日18時、大和など10隻は終結先の徳山を出港。各艦とも命令では片道の燃料と指定されていましたが、連合艦隊機関参謀とくれ軍需部長の相談で、帳簿外の燃料を追加し、往復できるようにしてありました。沖縄沖の米軍泊地の艦艇を攻撃、沖縄本島に乗り上げて海上砲台となるべく沖縄へ向かった戦艦大和、軽巡洋艦矢矧などの艦隊は、7日昼過ぎから九州南西沖海上で米軍の航空攻撃を受けます。
 大和、矢矧、磯風、濱風、朝霜、霞の6隻が撃沈され、14時20分の大和沈没直前、第二艦隊司令長官伊藤整一中将(死後大将)は特攻作戦中止を命令、自身は大和とともに戦死します。この中止命令を受け、残る4隻の駆逐艦は生存者を収容しつつ帰還します。この日の戦闘について、大本営は翌8日17時、下写真のように、航空部隊と水上部隊を、いずれも特別攻撃隊としてまとめて発表します。(「大本営発表の真相史」自由国民社・より)大和のことは「沈没戦艦一隻」と寂しく出ているのにとどまります。そして、このごにおよんでも、駆逐艦の沈没数を1隻ごまかすのが、なお寂しいことです。

大和沈没の最初の公式発表

 そして、もう一度この攻撃が大きく取り上げられるのは8月6日、連合艦隊司令長官が海上特別攻撃隊の殊勲を布告し、伊藤中将の大将進級を海軍省が公表した時で、出撃から4カ月後のことでした。8月7日の朝日新聞は、一面トップでこの話題を掲載しました。

連合艦隊司令長官の布告を載せた朝日新聞

 「燦たり・海上特別攻撃隊」「沖縄周辺の敵艦隊に壮烈なる突入作戦 伊藤大将以下、大義に殉ず」との見出し。「航空部隊の総攻撃に呼応して戦艦を含む海上部隊も特別攻撃隊を編成、指揮官伊藤整一中将座乗の巨艦先頭に沖縄島周辺に壮烈果断な突入作戦を敢行、帝国海軍の伝統をこの一戦に発揮し沖縄決戦の劈頭を飾ったのであった」と書かれています。沈没艦船の情報は何もありません。そのせいか、取り上げられている人物は伊藤中将のみです。

 発表の事実関係は、ほんのわずかです。このため、記事では「全軍特攻」「断じて敵を洋上に殲滅せん」など、最大限の美辞麗句で埋めていきます。

竹槍事件の際に海軍に助けられた新名丈夫の記事であろうか

「海上特攻隊突撃の最後の戦闘状況は部隊が生還を期せざりし特攻隊であったがため、未だ全貌を明らかにする時期に至っていないが、指揮官伊藤中将をはじめ乗り組み勇士のあまた征いて還らず、水漬く屍と散った」としています。もはや、戦果の問題ではなく、いかに敢闘精神を示すかー。まるでそんな状態に陥っているようにも感じられます。

特攻隊のため全貌は分からない、と

 布告でも大本営発表でも、大和の名前も有賀艦長の名前も出てきません。当時は大和の存在そのものが秘密であり、また、通常でも被害艦の艦名も艦長の名も出さないので、出てこないのでしょう。ちなみに、大和の護衛にあたった第2水雷戦隊司令官で矢矧に乗った古村啓蔵少将も、同じ朝日村出身の同期(生還)でした。こちらも、触れられることはありませんでした。

 一億特攻の先駆けに、ということでの出撃でしたが、何のための出撃であったのか、あらためて考えさせられます。航空特攻の戦死者はざっと4,000人とされますが、この水上特攻で3,722人という多数の命を失わせるほどの、意味のある作戦だったのでしょうか。
 この戦死者の中には、有賀艦長以外の長野県出身の戦死者も数多くいました。呉市海事歴史科学館ー大和ミュージアム発行の「常設展示図録」には、大和での戦没者が各県ごとに記載されています。長野県は31人でした。せめてここに、その名前を抜粋し、ご冥福を祈りたいと思います。

 飯嶌善作、伊藤泰人、今村信夫、上原國雄、大井邦夫、大蔵茂雄、太田武文、岡澤伸男、降籏文男、小林正久、酒井菊雄、坂巻峰易、神社喜一郎、高橋茂人、竹内長重、田澤茂孝、千葉徳市、中島良作、中村大門、成川友衛、根橋正彦、畑山栄治、花岡三次、馬場良市、古川嘉之、増澤功、松下米太郎、松下春雄、松本昭、三澤泰人、三原貢(敬称略)
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 ところで、8月7日の紙面には、6日に広島へ落とされた原爆について、見出しは1段と一番小さい扱いで、間違いもあり、わずか4行の記事で紹介されていました。そして「若干の損害を被ったもよう」と。早朝の爆撃による被害が、この段階でこれだけしかわかっていないと言う事はなく、明らかに情報操作でした。大本営の正式発表は7日15時半でした。

わずか4行の第一報

 戦争は、その指導者の都合によって人を死に赴かせ、また、人の死の情報も効果的に操作するのが当たり前であることを、この日の紙面は伝えてくれています。目隠しされたまま国家のため、を名目に庶民が引き回されるのが戦争です。戦時体制です。きっぱり、訣別していきたい。

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信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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