疎開者受け入れで天手古舞だった長野県ー邸宅開放を渋ったり、金に糸目をつけない疎開者に借家人が出されたり…
1944(昭和19)年1月26日、政府が東京都と名古屋市に建物疎開命令を出します。これは前年12月に閣議決定した「都市疎開要項」に沿った対応で、軍需工場などの分散を図る生産疎開、人口密集地などの建物を壊して防火帯を作る建物疎開、そして老人や子どもを退去させる人的疎開の3つがあり、ともかく進まない作業から建物疎開を優先し、東京都では1月から5月にかけて55000戸、58500世帯に立ち退きをさせる建物疎開を実施します。これと並行し、3月には「一般疎開促進要項」が出されていますが、生産者や世帯の主要な防火要員の疎開は防空法で許されていませんでした。
これによって生じる疎開者を受け入れたのが、長野県など都市周辺の県でした。長野県では、貸家や間貸しをしている人をすべて組合に入れて統制する措置を指示し、1944年3月20日から実施します。
実際にどんな勢いで人口が増えたか。長野市の例だと1944年2月の77,669人だったのが、戦後になりますが1945(昭和20)年11月に89,923人を数えました。既に引き上げた人を差し引いても12,000人ほど増えており、しかもこれは1944年3月以降に急激に伸びているのです。長野県松代町(現・長野市)の疎開転入者人員表から、その推移をグラフ化すると、下写真のようになります。
ピークは大きく2つあって、最初は1944年1月の建物疎開によるもので3月に一般疎開促進要項が出された直後にあたります。次のピークは1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲後になります。長野県内への疎開は、だいたい同じ傾向にあったとみられます。
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一方、当時の新聞記事をみますと、さまざまな対策を打ちつつも、住宅問題はずっと続いていた様子がうかがえます。長野県は疎開者のために新築するのではなく「既存建物活用要項」を1944年3月に決定しており、各市町村では離れや貸間の提供を呼びかけ、長野県は7月に住宅を疎開者用に改造する場合は費用の6割を補助するとしています。それでも足りないことから、1945年には工場疎開などに伴う住宅対策として寺や公会堂の供出運動を行い、3月までに1500戸を確保するとしています。
一方で、協力を渋る邸宅持ちも目立ったようで、1944年11月11日の信濃毎日新聞には「もったいない住宅1600戸 松本」と題し、松本市が調査した市民住宅の畳数は1人当たり20畳以上が190戸、15畳から20畳までが373戸、10畳から15畳までは1011戸の合計1574戸あるとし「平均1人3畳当たりを標準畳数必要畳数とすれば、前記(略)贅沢住宅から浮いて来る畳数はざっと2万余になるが、これだけで(略)七千名近く居住が可能となり、近く実施される老幼妊産婦の疎開受け入れにも決して難事ではないにも拘わらず、理由を左右してこれを供出開放しようとしないところに非時局的のあい路が潜んでいる」とし、市民の住宅難はこの方面の開拓が急務と指摘しています。
しかし、同居の場合は台所や便所が共用となり、さまざまなトラブルも発生するとして、何とか一軒貸しをとの希望が多く、蚕室を改造した小屋に入るケースもありました。
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また、都会の金持ちの横暴と、それに乗る家主によって闇値が発生しているとのコラムが1944年9月19日の紙面にありました。「▼住宅の問題はいろいろな角度からいよいよ窮屈になり、市街地ばかりでなく農村にまで浸透してきた(略)善良な借人でもこの頃では「いつ追い立てを食うか」と戦々恐々としている▼(略)農村で悩みの種となっている野菜類の不当値買い出しと同じで(略)不当値家賃の流行からである▼この当事者の一方は疎開者ばかりとは言い切れないが、大体懐のあたたかい疎開者がこれはと思う家を見つけると人が住んでいようがいまいがかまわずに家主へ売るなり貸すなりの交渉をはじめてしまうのだ。実際人口7千とない豊科町でさえ「貸家」「売家」の札の出ていない家の売買がたくさん行われている。そのため追い立てを食って居る気の毒な店子が多い▼(以下略)」といった状態でした。
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そんな混乱の中、なんとか長野県小布施町の新生療養所(現・新生病院)に落ち着いた女性が、1945年、都内で避難している知人に宛てたはがきがこちらです。
「都恋しい寒村で毎日憂鬱な日を送っております」というあたり、正直な気持ちでしょうが、都会と農村の埋めがたいギャップを感じさせ、トラブルの原因になっていったのではと思えます。一方、住宅難で14人家族になっていたところ、ようやく静かになったとあり、それぞれ何とか空きを探して移れたようです。消印がはっきりしないのですが、5月には東京への空襲は山場を越えていたので、4月11日あたりに疎開してきたと推定しています。
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命があるだけでも、という疎開生活ですが、人が生活する基盤を築くのは、そう簡単にはいきません。そして、お国のためと大上段に振りかぶればことが住むというものでもありません。逆に、逆境になると人の生存意識があらわになるという感じです。「衣食足りて礼節を知る」とあるように、戦争への道を進まないためにも、安定した生活を国民が送れるようにすることこそ、政治の責任と実感します。