珍しくシベリア出兵をテーマにした「少年進軍双六」は、完全に少年を兵隊に見立てた点でも珍しい
表題写真と以下の写真は、いずれも雑誌「日本少年」の1919(大正8)年1月1日発行号の付録「少年進軍双六」です。印刷は前年の12月8日なので、その時点で考えられた内容です。
シベリア出兵はロシア革命への干渉戦争で、1918年5月、チェコ軍とソビエト軍がシベリアで衝突し、日本軍の援助を受けていたコサック騎兵隊と呼応して西部シベリアに反ソビエト政権を樹立したのが始まり。英仏が反革命勢力支援のためチェコ軍救援を名目に、日米にも出兵を要請してきたのが、同年6月7日のこと。日本にしてみればシベリアに親日政権ができれば満州の守りにも大いに役立つことから、8月2日、日本政府はシベリア出兵を宣言します。
日本軍は12000人と連合国で最多の部隊を派遣しただけでなく、独断で増援を送り続け、10月末には72000人にもなり、バイカル湖以東を制圧、イルクーツクまで到達します。双六にも、バイカル湖、イルクーツクの名が見えます。
この時は、まだ第一次世界大戦中でしたが、ドイツでも革命政府が樹立されて11月11日、休戦条約が調印されて戦争が終わりました。その後もシベリアへの派兵は維持されていましたが、アメリカが1920(大正9)年1月にシベリア撤兵を声明。ちょうどこの付録の付いた本が売られていたころです。英仏も撤退しますが、日本のみはその後もパルチザンやソビエト軍との戦闘を続けシベリアに居座りますが次第に撃破され、1922(大正11)年8月、ようやく撤兵します。
こうして歴史を一覧すると、ちょうど日本軍が一番ソ連領内に押し込んでいたころの状況を描いた双六と分かります。
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さて、多くの戦争双六では、戦っているのは大人の兵隊で、上りだけ少年兵がいるとか、子ども向けには動物を使うなどしていて、あくまで軍人や兵器が主役を務めています。が、この双六では、少年が兵隊として赤紙で召集されるところから始まっています。
この双六には、シベリア出兵とは一言も書かれていませんが、上陸地はウラジオストックで、シベリア出兵を扱っていることは明白です。
そして、シベリア出兵の口実になったチェコ兵もコサック兵と合わせて登場しています。
さらにバイカル湖も進撃、実際には行っていない、ソ連最高峰のウラル山への登頂もさせています。また、子どもらしく、慰問袋からキャラメルを手にして喜んでいます。
上がりはどこかのロシアの街で凱旋というもの。
一方、この双六にはこんな暗示も。「戦死」のマスに止まったら振り出しに戻るのですが、ここで少年兵はラッパを持っています。日清戦争で「死んでもラッパを口から離さなかった」とされた木口小平をイメージさせているのは明らかです。
たかが双六、ではありますが、これだけリアルに少年と戦争を重ねたものは少ないです。「もう少し大きくなったら兵隊さんに」という意識を育てるには、こうしたさまざまな世の中の仕掛けが働いていた歴史の役者として、記録に値するものだと思います。本を出していた「実業之日本社」がどこまで考えていたか。是非とも知りたいものです。「受け狙い」がどんな影響を子どもたちに与えたか。そしてこうした内容がまかり通る社会だったということを、記憶しておかねばならないでしょう。