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戦時下の昭和18年、子どもが産まれたー物がない中でも、皆が持ち寄ってお祝いだ!
太平洋戦争もガダルカナル島からの撤退が決まるなど、戦局は消耗戦で下り坂に向かっていた、1943(昭和18)年。1月31日、豪雪の地として知られる長野県水内村(現・栄村)のある家で、男の子が産まれました。
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出産は大事。特に豪雪地で移動も困難になる時期の出産で、産婆さんのお手伝いのもとで母子とも元気。「皆大喜びである」の記述が嬉しくなります。さて、出産を伝え聞いた近所や親類の人たちが次々とお祝いに訪れ、なにがしかのお祝いを置いていってくださいました。その記録をご紹介します。山村の冬、急な物入りに皆が支え合った、貴重な資料です。
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上写真で「実母散」は、産後の薬として使われていた物です。「魚一尾」には「子供の出産祝の為頭付き魚」と注釈が入っています。そのほか、野菜や漬物、餅や卵もあります。「煮物」はすぐおかずで食べられるので、出産の終わったお母さんを少しでも休ませるのに役立ったでしょう。
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「豆腐」は何人もが持って来てくださっています。豆腐も卵と並んで栄養価の高い食べ物で、産後の体をいたわる狙いでしょう。炭を「半叺(かます)」というのも冬場のお産にはありがたいもの。
そして「粉」という言葉が出てきますが、これは小麦粉か、あるいは米粉か。豪雪地帯で麦はあまり作っていなかったでしょうから、くず米を粉に引いた米粉と推定しました。「一重」というのは、重箱のことだそうです。
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「ぜんまい」とありますが、これはもちろん春先に収穫したもの。それを干したか、漬けたものでしょう。「薬キノコ」というのも、ちょっとおもしろい。野生のものでしょうか。米粉は、母乳が出ないときに赤ちゃんに重湯にして飲ませたりするのに使えますし、練って団子にもできるうえ保存も効きますから、多くても問題なかったでしょう。
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「子どもの古着」は、既に服の類が衣料切符による割当制になり、しかも品物が入手できればという時期だっただけに、ありがたいものだったのは間違いありません。さんばさんも卵を持って来てくださいました。黒豆は冬の保管食糧の一つですし、豆に育つようにとの縁起のものでもあったでしょう。
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そしてコメ、味噌、現金といったすぐ役立つもの、果物、飴といった嗜好品まで。皆さん、急な入用の時はお互い様と、支え合っていた様子が目に浮かびます。特に戦時下、現物の持ち寄りは農家同士であっても、皆有難いことだったでしょう。
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そして、出産から三カ月ほどでの七夜祝。この地方の風習である、親類ではないが子どもの見守り役的存在の「取上親(とりあげおや)」ーさんばとは違うーが、これまた貴重な産着の綿入れや頭巾を持って来てくださいました。そして、ここに出てくる「おこわ」はご祝儀を持って来てくださった皆さんにお返しとして使いました。
戦時下でなくとも、小さな山村では、どこの家庭もその日は何とかしのいでいても、突然の入用に対応するのは大変なこと。戦時下であればなおさらでしょう。それが分かっているからこそ、それぞれが情報に気を配り、何とか工面できるものを用意して持ち寄って。それが地域で生き抜く知恵であり、習慣であったはず。戦時下のモノ不足の下で、その力をより発揮していたのではないでしょうか。
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