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「信州郷軍同志会」、信濃毎日新聞主筆・桐生悠々を退社に追い込み、不買運動用意して信濃毎日の論調を変更させる

 長野県の地方紙、信濃毎日新聞の主筆・桐生悠々が社説「関東防空大演習を嗤う」を書いたことをきっかけに、同社に難癖をつけ、桐生悠々を退社に追い込んだばかりか、信濃毎日新聞の論調を国策に沿った親軍的なものへと変更させるに至ったのは、長野県内の在郷軍人でつくる「信州郷軍同志会」でした。では、信州郷軍同志会がどういう経緯で結成されたか。それは、軍人や在郷軍人が政治に関与してはならないとする規約を避け、積極的に政治・社会へ圧力をかけるためでした。

 その動きが信濃毎日新聞に掲載されたのは、1932(昭和7)年8月3日付朝刊で「県下の在郷軍人が禁断の実践運動へ 郷軍同志会と銘打ち」との見出しが、その性質をよく表しています。

信濃毎日新聞1932年8月3日朝刊記事

 記事によりますと、兵営生活を終えるなどした在郷軍人が「社会運動の第一線に起つことは固く禁ぜられている」ため、県内の在郷軍人会各分会の首脳者が5月以来協議を重ね、内外の多難な情勢を打破するため「全国に魁けて県下十万の在郷軍人を糾合して実践運動の渦中に投ずることに決定、信州郷軍同志会と銘打って華々しくスタートすることになった」と説明しています。関重忠幹事長は「在郷軍人会とは全然別個の団体」で「政治運動や農民運動の尖端に起とうなどという心算は」ないとしつつ、「情勢を直視した時にじっとしておれない気持ちが動き何とかしてスムースの局面に好適せしむべく運動を起こさねばならぬ」との気持ちで結成したとしています。
 当面の目的として、国民精神作興、国防思想振興と帝国国防の充実を期す、満州国の発達援助、自力更生対策の確立ーといった内容を挙げました。

実は長野県の在郷軍人会はこの年、五・一五事件の犯人の減刑嘆願運動をしようとしたところ、松本連隊区司令部から在郷軍人会の規約に反するとして止められた経緯がありました。相談は、この直後から始まったとみられます。記事でも、今回は松本連隊区司令部の了解を得ているとしています。

 これに対し、早速懸念を示したのが信濃毎日新聞の三沢精英編集長で、同日夕刊のコラム「拡声機」で次のように書きました。

1932年8月3日発行夕刊1面「拡声機」

「在郷軍人会の名に於ては、政治運動まかりならぬといふ、建前にあるからとあって、郷軍同志会の名に於てしたって、どの途、同じこと。
          ◇
軍人だからといって、一国民としては、政治運動も、社会運動も、大いにやるべしだが、然らば、あらゆる階級に、廣く同志を糾合すべきであって、何んと名づけやうが、在郷軍人会の範囲で、策動する以上、妥當でない。
          ◇
精神作興、国防充実、満州国援助、東洋永遠の平和、国民の自力更生等々、何にも、軍人の一手専売ではない。何故、国民全体へ、呼びかけないのか。
          ◇
凡そ、これ等の問題は、何んといっても、政治運動とは、不可分関係にあるのだから、軍人意識を離れて、赤裸々の一国民として、実践に移すべきではなかろうか。
          ◇
その限り、もはや「決して政治運動や、農民運動の尖端に起とう、などという心算はなく、寧ろ、さうした運動を避ける方針で、進みたいと思っています」などの、遠慮は御無用。
          ◇
こんな遠慮をしてることが、軍人意識で、物をいってる、何よりの証拠。
          ◇
軍人意識で物をいってる以上、明らかな政治関与で、大元帥陛下の勅諭に背反する。」

 大元帥陛下の勅諭とは、軍人勅諭のことです。しかし、三沢編集長の懸念とは裏腹に、日本の満州国の正式承認を経て、国際連盟のリットン報告書が満州国を自主独立の国とは認めないとの内容を発表といった世界情勢を背景に、それと反発する形で準備は着々と進みます。
 同年11月20日、信州郷軍同志会は設立総会を開きます。会員数は788人としていますが、実際は在郷軍人全員が参加するも同然で、陸軍省整備局長林桂中将が出席するなど、軍との連携も歴然としていました。宣言として「国家重大な時局に際し吾人は尽忠報国の本分に奮起し益々奮闘協力国難打開に邁進せんことを期す」を採択します。
 信濃毎日新聞社史によりますと、長野県下伊那郡の国家主義運動をけん引していた中原謹司が1932(昭和7)年5月に創刊した「信濃国民新聞」は「さきに信濃毎日新聞がその伝統的主張において本県の赤化事件を誘導し五・一五事件をやゆしたとの理由で信毎紙のボイコットの攻撃」とするなど、特に五・一五事件以降、その論調に反発を抱いていたということです。そんな中でのゴーストップ事件批判の社説やコラム、1933(昭和8)年8月11日付社説「関東防空大演習を嗤う」の登場が引き金となりました。
 
 信州郷軍同志会として、9月2日の幹事会で「信濃毎日新聞の反軍的論説は国論統一上憂慮すべき」「信濃毎日新聞社長はよろしく関係者を処断し以て君国に対しその不信の罪を陳謝すべし」といった勧告書を作成し、7日、小坂武雄常務に手渡します。小坂常務は「国民めいめいが信ずるところを論じ合い、おのずから落ち着くところに落ちついてこそ、真の世論は生るべきもの」と反論するも、信毎の論調を変更させる狙いで来ているのですから、らちがあきません。(「社史」より)。10日付の信濃国民新聞は、勧告を受け入れないなら「郷土思想浄化のため、全県下に渡って一斉に不買同盟を実行し、徹底的に膺懲する」と宣言しています。信毎は結局折れざるを得なくなり、9月18日に同志会に対し桐生悠々の退社、三沢編集長の謹慎、常務の謹慎と謹告の掲載、そして「信濃毎日新聞は将来国策遂行思想善導に更に一層の努力を傾注することを誓約」する「屈辱的な終結」(小坂常務「社史」より)となります。

国策支持や軍への配慮を打ち出した信毎1933年10月1日付(9月30日発行)夕刊

 信濃毎日新聞は、約束通り、国策支持の形を「屈辱的な終結」から12日後の9月30日発行の夕刊で示すことになります。鋭い筆致だった三沢編集長の拡声機も復活しましたが、往年の切れはありませんでした。1937(昭和12)年の長野県全域での防空演習時の社説は、迎え入れないのは第一だが備えは必要と、軍に調子を合わせました。

 信濃国民新聞は、1934(昭和9)年3月20日の88号から「信州郷軍」と名称を変更し、正式に在郷軍人同志会の機関誌的存在となります。

信州郷軍創刊号

 収蔵品の創刊号では、関重忠幹事長が「郷軍の武器を備えて」と題した記事で「最後の決戦地はこの赤化地帯を超えてこの自由主義地帯にあり」とし、従来の共産主義思想が表向き壊滅させられているこの時期、新たに民主主義、自由主義への徹底的な対決姿勢を示しています。

自由主義もはっきりと敵と示すに至る

 「皇国」を御旗に、ひたすら進んでいく軍部の応援団。新聞社の論調も圧力で返させ、さらにはすべての自由主義的な思想、言論も攻撃対象としていくほど、エスカレートしていきます。そして政治に関与しないとしつつ、後には同志会から衆議院議員も当選させて政治に明確に関与していきます。
 言論の自由、自ら築いてきた大切な論調、そして公正な世論の形成、こうした当たり前のことが、次々とつぶされていった時代があったことを、よく覚えておいてほしいのです。それが崩されると、次には新たな敵対物が生じるだけです。懸念は芽のうちに摘まねばなりません。現在の政治、社会をよく見つめていかねば、ある日、気が付いた時には遅いのです。その時、味方する人、組織は、誰もいないでしょう。ひたすら権力に迎合し、それでも生殺与奪の権利を差し出すしかないのです。そんな社会を、二度と到来させるわけにはいかないはずです。

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