写真技術が発達するも日露戦争中、長野県地方紙の信濃毎日新聞は版画で勝負。ライバル紙は写真別刷り附録で対抗
写真の技術は幕末から日本に入ってきていて、明治期には各地に写真館もできますが、写真の印刷技術は現在の埼玉県出身の小川一真氏が1888(明治21)年、日本初のコロタイプ写真製版、印刷を始めたことから始まります。翌年に小川写真製版所を東京に開いています。1894(明治27)ー95年の日清戦争では、従軍カメラマンも登場していますが写真の送信技術がなく、印刷するのも小川写真製版所頼みでした。
長野県の地方紙、信濃毎日新聞の社史によりますと、最も古い確認されている写真印刷は1899(明治32)年11月25日付付録の県議会議員20人の肖像写真でした。信濃毎日新聞が写真製版設備を持つのは1916(大正5)年のことで、それまでは小川写真製版所に依頼して製版処理をしたとみられます。
一方、時間をかけても良い付録ならともかく、日々の紙面に写真を使うのは小川製版所経由しかないためかなり手間を要し、紙面に初めて写真が載るのは日露戦争後のことです。
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日露戦争当時、1904(明治37)年7月13日から31日までの信濃毎日新聞を所蔵しておりますので、当時の紙面作りを見てみました。この時期の信濃毎日新聞は、現在の新聞とほぼ同じ大きさですが4ページだけです。そして文字で埋め尽くすわけではなく、版画のイラストや地図を多用しています。
封書で贈られたものか、どう入手したかは分かりませんが、戦場の様子を知らせる絵も版木屋に依頼して彫ってもらい、掲載しています。
そして、現地から送られたはがきをそのまま版画にしたものもありました。ロシア軍が退却時に火薬庫を爆破したなどとあり、当時は私信の規制が緩かったと感じられます。
一方、悲しいしらせも版画を使いました。長野県史によりますと、日露戦争では長野県内からおよそ28,000人が従軍し、2,278人が戦死・戦病死をしたとあります。紙面には戦死者の版画があり、おそらく本人の肖像写真があった場合に版木屋に依頼し、使ったのでしょう。当時は文書の木版印刷など、まだまだ木版の需要があり、こうした店も残っていたとみられます。
そんな中、当時の長野市内でのライバル紙だった長野新聞は、1905(明治38)年1月1日号に、写真を製版印刷した戦場の様子を付録として付けます。撮影されたのは1904年8月31日で、撮影者は陸地測量部。そして製版印刷は小川一真、つまり小川写真製版所で作られたものです。
一方、信濃毎日新聞社は1906(明治39)年4月22日、長野県内の凱旋軍人と軍人遺族の「慰藉会」を長野市城山の運動場で開催します。それに合わせて月ぎめ読者向けに地元の大石写真館撮影、小川製版印刷所印刷の「善光寺十六景」と題した付録を付けます。月ぎめ読者向けには色刷りしたほか、会場での配布用に墨摺りのものを用意しました。こちら、その墨摺り版です。
一方、当日の様子を伝える24日の紙面では、版画を多用していました。直近の出来事には、まだまだこの時代、写真での報道は難しかったようです。
戦争報道では、第一次世界大戦以後、速報ではありませんが写真が紙面に載るようになり、輪転機も改良されたものとなって情報を求める人たちの期待に応えていきます。ただ、同時に検閲は写真にも及びます。新聞紙法で縛られた当時の新聞は、特に戦時下、厳重な情報統制をされ、写真の修正や不許可が当たり前となっていきます。
中の人は、大学時代に「写真は真を写さず」と教わり、現場でのスケッチや色付けの重要性を叩き込まれました。今、ネット空間にはフェイク画像があふれるようになっています。権力に統制されることなく、利用者や報道機関がフェイクをきちんと見破る能力を身に着け、自主的にフェイクに対抗し、糾弾していくことがより大事になっているでしょう。