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戦争指導者にとって、都合が良いのは物言わぬ兵士

 1922(大正11)年3月15日、「増加恩給増額請願、廃兵全部無賃乗車請願示威運動」が陸軍省や貴族院で行われました。こちらは、その様子を伝える新聞紙大のチラシです。

 大日本帝国は1868(明治元)年の明治維新以来、「富国強兵」、そして「脱亜入欧」のスローガンの下、軍備を増強し、欧米の帝国主義国家に倣って、対外出兵を連続させています。1874(明治7)年には征台の役で台湾を攻め、清国に賠償を払わせます。1894-95(明治27ー28)年には、朝鮮の支配を巡って日清戦争を起こします。その時に台湾や遼東半島などを得ますが、帝国主義陣営特にロシアの干渉で遼東半島を返還することに。
 これが根底となったほか、朝鮮の日本の権益を確保するため1904-05(明治37-38)年の日露戦争に。これに勝利した日本は帝国主義列強と各国に認められ、1914(大正3)年には第一次世界大戦に参戦し、中国の青島にあったドイツ軍の要塞を攻め落としますが、一方的に中国側の撤退要求を無視して、対華21箇条要求を突きつけ大陸の権益拡大を図ります。
 こうした行為が争いの種になるのに、「脱亜入欧」の日本はおかまいなし。1918-22(大正7-11)年にはソ連への干渉戦争であるシベリア出兵と戦争続きです。この示威行動が行われたのは、各国が干渉戦争の無益さを感じてシベリアを引き上げる中、まだ日本だけが踏みとどまっていた時期です。

 戦争では、華々しい戦死が美談として持ち上げられますが、一方では負傷して障碍者となる元兵士「傷痍軍人」も続出しています。が、その援護はまだまだ不足していた様子で、示威行動に移ったとみられます。こちらは示威運動に合わせ、松本亭(日比谷の松本楼のことか)に集まって撮影した写真です。

松本亭での撮影

 「足1本月9円」「盲目のデクの棒 月たった12円」など、それぞれが首から下げた紙に書き込んであります。「嗚呼 飢しい 寒い」「後顧するなと大虚言」といった言葉に胸が痛みます。
 「足 この勇士月たった9円 203高地」との札もあり、日露戦争で足を失った傷痍軍人が参加していたことが分かります。

陸軍省正門前

 こちらは、陸軍省正門前での示威行動です。「一将功成り万骨枯る」「閣下踏み台連」といった表現が、一線兵士の怒りを表します。 

陸軍省の門内

 陸軍省門内。「廃兵の悲惨、かくのごとし」との文字も見えます。第一次世界大戦後の不景気の影響もあり、厳しい生活状況を訴える言葉です。一行は、貴族院門内でもアピールしています。

 その後も世界の潮流を読めない遅れてきた帝国の日本は満州事変、上海事変、日中戦争、ノモンハン事件、太平洋戦争と戦いを続けることとなり、戦死者だけではなく傷痍軍人も数多く生み出されました。一方で当事者が次々と亡くなり、長野県でも傷痍軍人会が解散するなどして、身近で傷痍軍人を通じた戦争の実態を感じにくくなっています。

 代わって、歴史を一つの時代として見つめず、ひたすら過去を「栄光」として持ち上げ、戦争で命を落とすことを美化する風潮がこれ幸いとばかりに出てきています。都合よく「英霊」と持ち上げ、戦前の戦争を賛美する…。そんな時代だからこそ、ひとたび戦争となった時に戦争が兵士や庶民に与える影響を、冷静に見つめ、より広く伝えることが大事だと考えています。

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