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1943年3月発行の雑誌、一斉に標語「撃ちてし止まん」が掲載される

 戦時体制になる前も、出版物への法的規制はさまざまありましたが、特にひどくなってくるのが、1937年7月7日の盧溝橋事件に端を発した日中戦争が本格化して以降です。1938年には国家総動員法が制定され、軍需優先のため紙原料のパルプの輸入も滞ると商工省が業界団体を通じた紙の統制を始めます。それぞれの出版社の実績に応じての配給割当ですが、減ることはあっても増えることはない時代に。
 そして、大本営陸軍報道部と海軍報道部、とりわけ陸軍報道部が、あらゆることに対して口出しをするようになってきます。例えばパーマネントはやめようという声にどこまでいいのかという判断ができないから、報道部を訪ね、そこで写真で選別するなどして基準を決めています(「出版と権力」魚住昭著・講談社)。その延長で、内閣情報部が情報局に拡大されています。

 一事が万事、その調子でしたが、特に太平洋戦争下、1943年には2つの大きな変化がありました。ひとつは文部省による演奏禁止音楽の発表で、これをきっかけに「米英後の追放」という社会現象が一気に広まります。もう一つは2月の国家総動員法に基づく出版事業令の公布でした。この勅令はいっさいの出版物を情報局の完全な統制下におくことであり、日本出版文化協会は解散、より強力な統制機関「日本出版会」が誕生、同会は全国約3400の出版社を200社程度に統合しようというものです。新聞については、基本的に1県1紙に整理がされていたころでした。

 そんな流れを受けた1943年の各雑誌の3月号は、表紙に戦意高揚の標語「撃ちてし止まん」を軒並み入れています。同年3月3日情報局発行の「週報」では「大東亜戦争を戦い抜く一億の決意を示す言葉として『撃ちてし止まむ』の合言葉が用いられていますが、(略)『撃たずば止まじ』すなわち殲滅しなければ止まないという意味です」と解説しています。3月10日の陸軍記念日に合わせ、出版会も一斉のキャンペーンを指導されたものとみられます。こちら、「子供の科学」1943年3月号です。

 余談ですが、「子供の科学」のタイトルは当初、右横書きですが、このころは左横書きにしています。

右は1939年3月号で、当然スローガンはない

 大日本雄弁会講談社の雑誌「キング」は、1943年3月号から「富士」と改題します。そして3月号は楠木正成を表紙絵に採用するなど、国粋の雰囲気を高めています。

左が改題前の1943年2月号、右が改題した3月号
「撃ちてしやまむ!」とスローガンもしっかり

 女性向け雑誌でも当局が求めるのは同じところ。かつて陸軍報道部鈴木庫三少佐が新体制を自覚しない悪い雑誌(前掲書)と決めつけた「婦人画報」も、1943年3月号には標語を表紙に載せるとともに陸軍記念日特集を組んでいます。

「全女性戦闘配置」と副題をつけるところまで

 女性誌で最も売れていて軍にも協力的でパイプもあった「主婦之友」も、1943年3月号で標語を入れますが、表紙絵に差し障らない程度の目立たないものにしました。このあたりは、信頼を得ているということで冒険したのでしょうか。

標語はどーこだ
赤ちゃんと母親の間にそれでも入れました

 なお、3月10日に合わせた標語掲載は1944年にも引き継がれています。手元にある雑誌で確認しますと、改造社「改造」は3月号、中央公論社「中央公論」は4月号でそれぞれ掲載。ずれは印刷発行日の問題かと思われます。また、主婦之友もやはり同年3月号に入れていました。この年は雑誌の整理も佳境に入っていた時期であり、各社とも気を抜けばいつ廃刊にされるか分からないという状態。とにかく戦争のため、と我慢したのではないでしょうか。

1944年の「改造」3月号
「中央公論」1944年4月号
「主婦之友」1944年3月号

 国家権力の介入とは、ここまで大きな力を発揮させるのです。出版や放送に限らず、国民や業界が自分たちで取り決めて社会的に公益的に物事をきちんと進めること、国家に介入させる余地を見せないことが大切です。特に表現の自由をはき違えることなく、権力と対峙していく姿勢と、それを国民に支えられる信頼性こそが大切なのではないでしょうか。

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信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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