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三菱の「地下飛行機工場」、長野県上田市にも疎開準備ー松本市と並行して計画される

 太平洋戦争当時、軍用機の一大生産拠点であった三菱重工業株式会社名古屋航空機製作所は、1921(大正10)年の創立以来、拡大を続け、1944(昭和19)年12月には建物20万坪、工作機械3,800台余りをそろえる大工場となっていました。
 しかし、同年12月7日発生の東南海地震で工場、工員とも大きな被害を受け、長野県からの勤労動員学徒も犠牲に。さらに12月18日の初の空襲で大損害を受けます。そして本土防空を担当する陸軍から、生産の全面分散を要請されたことから、検討に着手。1945(昭和20)年2月には、愛知、長野、富山、静岡、滋賀、三重、福井などにまたがる分散計画を立て、それにともなって会社職制が改正されます。航空機製造のため、第一、第三、第五、第十一製作所の4工場を設立することとし、分散疎開が実行に移されます。(以上、「三菱重工業株式会社史」より、「松本市における戦時下軍事工場の外国人労働実態調査報告書」から抜粋)

 この製作所のうち、長野県松本市と周辺を中心に移転したのが、技術部を中心とする「第一製作所」で、一部は長野市と諏訪郡下諏訪町にも疎開しました。そして、陸軍機の製造に携わる第二工作部の一部を引き継いだ「第五製作所」が、愛知県内や周辺を中心とし、合わせて長野県の長野、上田、丸子、須坂などの紡績や製糸などの工場を転用するというものでした。陸軍の双発戦闘機キー八三の生産を計画していました。

 上田では、1945年6月から地下飛行機工場や半地下工場の建設が始められましたが、敗戦を受けて出来高30%で中止となり、そのまま放置されてきました。
 一方、1983年から高校の教師、地域の青年団ら有志が聞き取りや現地調査を進め、上田市への保存などの陳情も行うなどし、この人たちが母体となって1994年に「仁古田等地下飛行機工場調査保存の会」を結成。翌年の戦後50年の節目となった1995年8月に冊子「上田地下飛行機工場」をまとめます。

30年前に発刊された貴重な記録

 以下、同書を参考に概要を示しますと、戦時下の上田市や周辺町村には、既に多数の軍需工場が疎開してきていました。米軍の調査によると、長野市の長野工場(長野カネボウ)が最終組み立て、上田市の上田工場(上田カネボウ)が部品製造、丸子工場(丸子町=現・上田市)が燃料タンク製造という形でいったん疎開を始めたもようです。
 その後、松本市と同様、陸軍から地下工場への再疎開が強く求められ、いずれも現在は上田市となっている地域に「仁古田地下製作所」「下之郷半地下製作所」「上田半地下作業所」を設けたとしています。

 「仁古田の会」の調査によりますと、地下工場の工事は正式には「上田附近三菱重工業株式会社第五製作所分散防護工事」と称し、「ウ工事」と秘匿名称が付けられ、本部は下之郷の生島足島神社境内に置かれました。
 仁古田と八木沢の間の砂地の丘陵にトンネルが掘られ、完成の暁にはエンジンを製作する予定でした。これが「仁古田地下製作所」にあたります。
 そして東塩田などの丘陵に約60棟の地下工場、半地下工場を建設し、飛行機の部品や中間段階までの組立を行うほか、疎開してきた他の軍需工場も収容する計画でした。これが「下之郷半地下製作所」にあたります。
 さらに陸軍上田飛行場に隣接する川辺の段丘をえぐるように掘って、屋根をかけるだけの飛行機の最終組み立て工場をつくる計画でした。鉄が入手できず、梁が木造で、かまぼこ型の屋根にするということで、松本市で作られたようなものとする計画だったとみられます。これが「上田半地下作業所」に当たります。

 非核平和都市宣言をしている上田市がホームページで公開している市内の戦跡に関する地図では、以下のような配置となっています(プリントアウトし主要部を撮影)。ここでは「上田半地下作業所」を「上田原飛行機工場計画地」、「仁古田地下製作所」を「仁古田飛行機工場計画地」、「下之郷半地下製作所」を「東山飛行機工場製作地」とそれぞれ表記しています。ホームページでは、仁古田のトンネルの様子が分かります(現在は立ち入り禁止)。また、最終組み立て工場である上田原飛行機工場計画地と上田飛行場跡を結ぶ軍用道路も整備されたとしています。

「上田市の戦争遺跡地図」より

 冊子「上田地下飛行機工場」には、表裏の表紙にまたがって、これらの工場がすべて完成したらという想定のイメージ図がありますので、これをごらんいただくと、さらに状況が見えてくると思われます。

あくまでイメージです

 中の人は、これら戦跡や松の木から脂を採取した後の保存活動などに取り組んでいる方々の案内で、2012年3月に「東山飛行機工場計画地」を訪問し、なだらかな丘陵に掘られた半地下工場の跡をみさせてもらいました。下写真は、斜面の上から半地下に掘り下げた場所を見たところ。斜面をけずって、さらに彫り込んでいる様子が分かります。

斜面上から見た半地下工場跡。松枯れ木の伐採後で見やすかった

 下写真は、上写真の右手の低い位置から撮影したもの。左が斜面上部で、なだらかな斜面の断面と、撮影地点が平地になっていることが分かります。

半地下工場跡

 下写真は、上写真とは逆方向から、斜面の上に上って撮影。人と対比すると、けっこう斜面の上側が大きく掘られているのがわかります。おくした場所はごみの不法投棄場所になりやすく、案内してくれた皆さんが市とかけあって、きれいに撤去された状況です。

半地下工場跡

 冊子「上田地下飛行機工場」によりますと、6月8日に軍から工事のことを伝えられ、土地の借用などの要請があり、飯場の建設も行われ、東部軍の一個中隊も到着、20日ごろから工事が始まったということです。7月にはダム工事現場から移動してきたとみられる朝鮮人労働者も入り、8月からは近隣から国民義勇隊が支援に入りました。
 朝鮮人労働者の正確な人数は不明ですが、当時の浦里村の資料から推測し、1600人から2000人ほどの朝鮮人がいたとしています。正確な人数が不明なのは、松本市と同様です。ここでは西松組や戸田組が工事を請け負い、日本人を含め、全体で4400人ほどが従事したとみられます。

 敗戦で玉音放送が流れましたが、朝鮮人労働者には知らされず工事を続行、数日してから敗戦が伝わったということで、これは松本でも同様でした。いずれも、朝鮮人労働者の暴動を恐れてのことでした。
 それとは対称的に、冊子の証言には「やがて終戦をむかえ狂気のように喜んで朝鮮の旗をふりたてていた」「敗戦を知らされたのは2日後で、その数日後から帰国させますが、飯場から上田駅に向かうトラックからは『万才、万才』と叫ぶ大声が聞こえた」といった朝鮮人労働者の反応が記載されています。現地では朝鮮人の家族から地元の人がキムチの作り方を教えてもらったなど、交流もあったようですが、この解放感の大きさは、韓国併合以後、鬱屈されてきた民族の思いを見せているように思います。

 こうした歴史、戦争で苦労をすること、異民族にも苦労を強いたこと、それらを忘れず、その歴史を基礎として、そのうえで未来を見ていくことが可能になると思います。過去に学ぶのは、将来を誤らないようにするため。その一点で、今後も発信を続けます。

 


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信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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