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戦時下の小学校卒業記念写真帳から、時代の雰囲気を感じてみよう
戦前の尋常小学校も、卒業にあたっては小さいながらも記念写真帳をつくっていました。そのいくつかの変遷をみてみます。こちら、少し変遷が分かる安茂里尋常小学校(長野県安茂里村=現・長野市)の卒業写真帳を参考に見てみます。まず、1936(昭和11)年3月、1938(昭和13)年3月、1941(昭和16)年3月の表紙を並べますと、昭和16年3月のものには新たに「皇紀」が2601年と入っています(昭和標記も併記していました。前年が2600年記念であったこと、1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件に端を発した日中戦争の長期化なでで、これを機に、より国粋的引き締めが行われたと推察します。
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まず、1932(昭和7)年3月の安茂里尋常高等小学校尋常科の「卒業記念写真をみますと、最初に校舎の写真があり、職員、男子部、女子部と、計4枚の記念写真帳でした。
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1936(昭和11)年尋常科のものは、校舎全景と写真の被せ紙には印刷してありましたが、修学旅行の写真に差し替えたようです。生徒も嬉しいだろうとの配慮でしょうか。
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これが1938(昭和13)年、高等科の卒業記念写真帳では、再び校舎全景に戻りますが、校舎の撮影の向きが1932年のものとは全然違い、おそらくこの間に建てられたとみられる「奉安殿」を手前にしたアングルとなっています。奉安殿は、教育勅語と天皇皇后の写真が入れられていて、児童はその前を通る時には最敬礼をさせられました。
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そして、紀元2601年、1941(昭和16)年3月の尋常科卒業記念写真帳は、それまでの校舎がなく、いきなり職員の写真、児童の西組、東組、合わせて3枚となり、それまでずっと続けてきた4枚の写真から減らされたものになっています。写真材料、紙資源の払底の影響とみられ、日中戦争がここまで響いてきているのが分かります。
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太平洋戦争下に発行された記念写真帳は、発行する学校が減ったのか、あるいは大切にしまわれているのか、中の人も探していますが、なかなか手に入りません。その中で、紀元2603年、1943(昭和18)3月の「小布施国民学校」高等科の修了記念写真帳を入手できました。現在の長野県小布施町にあたります。こちらは印刷ページ1ページと写真が職員、男子組、女子組、そしてやはり伊勢神宮の修学旅行と4枚の写真がはさんでありました。
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印刷ページは、左肩に奉安殿、校舎全景と男子騎馬戦、そして戦時下を意識した「運動会女子薙刀」の3点になっています。
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薙刀は精神鍛錬ということで広く取り入れられましたが、実際に当時の学生らの感想を見ると、少しでも軽い木製の薙刀を選んでいたということで、やはりつらかったことしか残らないようです。
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表紙への皇紀の記入、写真の枚数減、そして天照大神を祀った伊勢神宮への修学旅行、奉安殿設置、女子の薙刀と、戦争の時代の動きに合わせて、さまざまに変遷していく様子、それも次第に天皇を頂点とする全体主義が強調されていく様子が感じられます。教育勅語の評価や国旗国歌法、教員の縛り付けなど、このような時代に戻らせる勢力の動きをできる限り封じ、自由闊達な学び舎を護ることが、戦争を回避する第一歩ではないでしょうか。
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