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当事者抜きの国際紛争の解決ー既視感がある、ナチスドイツのミュンヘン会談

 1933年3月、まだ過半数の議席を得ていなかったナチス党は、保守政党の協力を得て組閣。そして議会は、ヒットラーに無制限の権限を与える「全権委任法」を成立させてしまいます。これに協力した議員たちは、自分たちとは無関係と思っていたのでしょう。最初に共産党が非合法とされて議席を失います。しかし、政党の排斥はこれで止まらず、夏までには全政党が遺法とされて解散、さらに新政党設立を禁止する法律までつくられます。そしてヒンデンブルグ大統領が翌年死亡すると、1934年8月19日、総統に就任します。ここまでは、国内の全権掌握の流れです。
 なお、この年は、日本がワシントン条約とロンドン条約の軍備制限協定を破棄しています。

 ドイツが第一次世界大戦による失地回復に乗り出し、さらに拡張を始めるのは1935年からでした。賠償金支払い遅延で割譲されていたザール地方を住民投票でドイツに復帰を決定させたのは、まだ合法的色彩がありました。同年、イタリアはエチオピアを侵攻、これに対し国際連盟は経済制裁をなんとか行うことができました。1936年、ロカルノ条約を破棄してドイツ国内に設けられたフランスとの国境の非武装地帯ラインラントに軍隊を置きます。こうして孤立を深める日、独、伊は、1937年11月に三国防共協定を結んでいます。日本は既に中国との戦闘(日中戦争)を開始している中での条約調印でした。ヒットラーには、日本に米国の牽制を期待したとみられます。

 そして1938年、ヒットラーは3月12日、オーストリアに進駐します。ドイツ系住民からの熱烈な歓迎を受け、当初は一連邦にとしていた計画を変更し、3月14日に統合します。下写真は、大日本雄弁会講談社「ヒットラー」(1941年8月1日発行)より、オーストリアに進駐したヒットラーです。

 次いで、ドイツ系住民がいる多民族国家チェコスロバキアに狙いを定め、1938年5月30日、チェコ攻撃秘密司令を発動。そして9月29日から、独、伊、仏、英による「ミュンヘン会談」が行われます。議題はチェコの中でもドイツ系住民が多いズデーテンラントを巡る問題でした。仏、英はチェコと相互関係援助条約を結んでいましたが、この会談にはチェコの代表が呼ばれていません。そして、仏、英はチェコ全体へのドイツ軍の侵攻は世界大戦を誘発すると判断して、チェコ政府に逆に圧力をかけてズデーテンラントの割譲を同意させます。
 こうして、ドイツはチェコの領土を仏英の承認のもと、無血で手に入れることになります。この会談後、英国のチェンバレン首相はヒットラーと英独平和宣言を行い、両国が戦争をしないと宣言しました。独仏友好不可侵条約も締結していますが、これが紙切れになるのは当然の道でした。翌1939年、ドイツ軍はチェコの首都プラハに進駐。チェコ首相に降伏文書調印を迫り、全土を把握します。スロバキア領はスロバキア共和国となりましたが、やはりドイツの支配下におかれ、意味のないものになりました。同年、ドイツはソ連と不可侵条約を調印し9月1日、ポーランドへ侵攻。第二次世界大戦が始まりました。

ドイツを擁護する講談社の絵本「ヒットラー」

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 ミュンヘン会談から87年後の2025年。2月17日の信濃毎日新聞一面は、米ロの間でロシアのウクライナ侵攻に関する和平交渉が開始されるとの米メディアの報道を掲載。一方、当事者のウクライナについて、現時点で協議に参加の予定はないとし、交渉の席に欧州のテーブルはあるのかとの問いに米国のウクライナ・ロシア担当特使は「ない」と答えたということです。

2025年2月17日信濃毎日新聞

 当事者を含まず、大国同士で紛争の解決を試みるのは、ミュンヘン会談をほうふつとさせます。ミュンヘン会談では大国の安定を求める姿勢にチェコが抑え込まれ、この成功がドイツのさらなる暴走を招くことになりました。現在の国連の常任理事国が紛争の当事者となっていることから、国際連合も有効な手を打てない事態になっているのも、戦前の国際連盟が次第に無力化させられていった過程と重なります。

2025年2月17日信濃毎日新聞

 大国同士の取引で紛争を抑え込むのは、当然、当事者の反発を招くだけです。しかも、明らかな武力侵攻であり、武力による現状変更を認めさせるというのは、一度は戦闘が終了しても、次の火種がまかれるわけです。

 あらためて、清沢冽の言葉を借ります。(「混迷時代の生活態度」清沢冽評論集より、1935年1月11日刊)
 「元来進歩ということは各方面の意見が集って、それが切磋琢磨されて落ち着いた世論になって、そうして皆が一生懸命その方へ進むところにあるのであります。たとえば一家の問題に致しましても、親父だけが威張っているところではその一家の発展というものは少ない。妻君も子供もみんなこうしようじゃないか、ああしようじゃないかと言って初めてその一家に進歩がある」
 まずは戦闘をやめて、当事者が皆で冷静に話し合うこと。それによって、初めて火種の残らない終わり方ができるという、当たり前のことです。それが、変に威張っている親父同士で何か大事なことを決めて家族らに従えと言っても、無理な話。そして、取引感覚の交渉は、ミュンヘン会談の失敗を繰り返すことにならないか。世界が争っている場合ではないだろうに。

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信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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