83年前の11月10日、11日と紀元2600年の式典、奉祝会がありましたが…
2023年からみて83年前の1940(昭和15)年11月10日、宮城前広場にて紀元2600年式典が開かれ、翌日には同じ場所で紀元2600年奉祝会がありました。日本全国から約5万人が参列したということで、この下の写真は、島根・鳥取方面から参加された方が持っておられた、奉祝会で配られた酒饌のとっくりと参列者心得です。とっくりは表面に菊をあしらった岐阜県製、日本酒11種を調合したものが入っていました。
期間限定で提灯行列なども許可された式典でした。長野県でも式典当日、木曽高等女学校(現・木曽青峰高校)が記念音楽会を開くなどしています。東京の松屋では日時は不明ですが、運動会も開いていました。
しかし、紀元2600年の記念に計画したオリンピック(東京、札幌会場を予定)は日中戦争の影響で鉄を確保できず、競技施設を造れないことが大きな原因となって既に2年前に返上していました。また、合わせて開催予定だった万国博覧会(東京、横浜会場を予定)も無期延期していました。下の写真は、万国博覧会の前売り回数入場券と、万博会場予想図。戦争だけでも大変なのに、世界の列強へ発信し、万博で経済活性化をというのは、無理がありすぎたのでしょう。国がバラバラに動いていたようです。
この年、政府の国民精神総動員本部は5月10日、戦時報国運動の一つとして、コメの節約を国民に呼びかける「節米実施要領」をまとめ、麦や野菜をコメにまぜて炊くこと、うどんなどの代用食を食べることを奨励するほど、戦争の長期化が影響を見せていました。
さらにもっと早くからこうした呼び掛けはあったようで、1940年の紀元節(2月11日)、長野市の善光寺は、政府や県の呼びかけと申し合わせにより、麦2割以上の混食を実施することにしたとして、檀信徒にも協力するよう呼びかけていました。こちらがそのポスターです。
前年の1939(昭和14)年は干ばつのうえ、電力を始めあらゆるものが不足し始めるなど、既に戦争経済は厳しい局面を迎えていました。長期戦を遂行する体力はそんなに大きくなかったのです。長野県飯田市の上飯田学校では、地元の様子を伝える記念の絵葉書「銃後の上飯田学校」を作っています。稲刈りの勤労奉仕や運動会、2600年を祝う提灯行列など8枚で構成し、おそらく慰問品として前線の兵士に送られたことでしょう。これが現実でした。
当時、政界では次々と無産政党が弾圧を受けていたほか、国会では、長期の日中戦争が何の目的で行われているかが明確でないと迫られた政府や軍が反論できなかった「反軍演説」で、逆に質問した斉藤隆夫代議士が衆議院を追放されるなど、不穏な雰囲気が国民の上に漂っていました。紀元2600年をだしに、政府管理のお祭りでガス抜きを図ったと考えるのは容易なことでしょう。
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