戦時下、人々の寄付で作られる「献納兵器」。長野県民が寄付した軍用機「愛国号」と「報国号」も多数に上りました
戦争は、政治家や軍人だけが始めたり進めたりするのではありません。そこには大衆の支持があります。マスコミも含め、戦争の熱気に流されると、それは一種の熱病のようなもの。歯止めがかからなくなり、戦争に絡めた生活が当たり前になり、流れに従わない人を「非国民」「国賊」と呼んだりします。
一方、そんな戦争を後押しする庶民の力の表れの一つが、寄付金を集めて兵器を献納する「献納運動」でしょう。会社や資産家が多額の寄付をして献納される場合もありますが、やはり盛り上がるのは、住民組織が人々に呼びかけて作るものでしょう。長野県の事例を、軍用機にしぼって追ってみました。
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こちらが、1931(昭和6)年の満州事変の発生とともに盛り上がった献納運動で実現した、県内初の献納機「愛国39(信濃)」です。国内最初の献納を目指しましたが、献納日は翌年の1932(昭和7)年7月17日。当時最新鋭の九一式戦闘機でした。ちなみに、陸軍の機体は「愛国〇〇」、海軍の機体は「報国〇〇」と呼ばれました。市役所には別アングルの油絵が贈られましたが、もう残ってないでしょうねえ。あれば大発見ですが。
ちなみに、このころの献納機は余裕があれば関係地域を飛行して感謝の意を表しており、「愛国39(信濃)」も訪問飛行をしたにはしたのですが天候の関係で回れなかった地域からは不満の声が上がり、後日、同型機に愛国39信濃と描いて飛ばしたようです。それだけ、軍も当時は飛行機が高くて数をそろえるのが大変だったため、気をつかったのでしょう。
次いで献納されたのが、日中戦争を受けて長野県内の養蚕農家が寄付をした「愛国240 信州養蚕」で、九五式戦闘機です。1938(昭和13)年5月10日に松本市で命名式がありました。
そして、愛国婦人会長野県支部が呼び掛けて、県内の女性たちの献金で仕立てたのが「愛国434 信州婦人」。九七式戦闘機です。1940(昭和15)年5月6日に命名式があり、10日に信州訪問飛行がありました。ちなみに、大日本国防婦人会長野県支部はこの運動に参加せず、自主的な支援にとどめています。有力者が双方に加盟していることも多いことや、零細な家庭女性も多く参加している大日本国防婦人会と、中産階級以上が中心の愛国婦人会という、組織の違いも影響していたようです。
一方、業者による献納の事例を一つ。こちらは「愛国867 笠原組産報」で、上田市にあった製糸業者の笠原組による献納機です。一式戦闘機で、同社の社史によりますと、献納時期は1942(昭和17)年10月19日のようです。既に太平洋戦争に突入していました。
また、大政翼賛会長野県支部は、1942(昭和17)年12月26日から翌年1月30日に集約という短期間の日程で「愛国1592(翼賛信濃)」、一式戦闘機を献納します。
これに続いて、大政翼賛会長野県支部は、100機献納運動を呼びかけています。各地区の大政翼賛会支部が取り組んで、機体代金を納入していていきます。このころになると訪問飛行などはなく、実際に機体が作られたのかもあやしくなっています。記念品の写真類も、番号を合成しただけでは、とか、あやしげなものがたくさん出てきます。それでも献納運動は続けられ、100機献納は達成できたようです。
献納のための寄付に夢中になっている間は、戦争を支えようという純粋な気持ちであったのでしょうが、運動の熱狂は、えてして冷静な判断を狂わせるものです。これだけ頑張っているから負けるはずはない、と人々の気持ちを一方向に向かせる効果はあったかもしれません。こうなってくると、独り疑問を呈するというようなことはできず、個人の思いなどは飲み込まれていったことでしょう。
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