1970年ころの航空写真でも迷彩模様が屋根に残る信濃毎日新聞社屋と終戦のころの防空に対する混乱
長野県の地方紙、信濃毎日新聞社の2代目社屋は、関東大震災の年末、1923(大正12)年に当時長野県内で初めてのコンクリート高層建築物(3階建て)として長野市の現在の社屋の駐車場あたりに完成。印刷、発送もこちらで行いました。日中戦争が始まった1937(昭和12)年、本社の講堂で開いた「支那事変大展覧会」の記念絵葉書で、当時の社屋の様子が分かります。
この信濃毎日新聞社は、日中戦争から太平洋戦争にかけての新聞統合で長野県唯一の地方紙となりました。そのうえ、太平洋戦争末期には全国紙が空襲などで発行不能になる事態に備えて持ち分合同が行われました。つまり、当時、長野県内で発行されていた朝日、毎日、読売、中部日本の各紙の読者も、信濃毎日新聞しか読めなくなっていました。このため、題字下に各社の新聞名が入った題字が使われていました。
こうなると、信濃毎日新聞社が長野県中の新聞を責任を持って発行、配送しなければなりません。防空対策も万全にする指導がなされたのでしょう。1960年ごろ撮影された県庁周辺など長野県の中枢機関が集まる一帯の写真を見ると、信濃毎日新聞の社屋の屋根に迷彩の跡がくっきり残っています。残念ながら、いつごろ塗られたかは分かりませんでした。
そして迷彩だけでは済まず、1945年7月には長野市内の空襲に備えた建物の強制疎開が行われます。上記の理由で重要建築物とされた信濃毎日新聞社屋周辺の木造家屋も取り壊されます。
長野郷土史研究会が1974(昭和49)年9月に発行した機関誌「長野」の太平洋戦争特集号にある、戦中の同社総務部長の記事によりますと、木造家屋の取り壊しのほか社屋前の立ち木も「消火活動を妨げるから」と切り倒すなどしたことによって、重要建築物の県庁、産業会館、信濃毎日新聞社は逆に目立つようになってしまったということです。
「軍はこれを捨てておく筈はない。焼夷弾攻撃を避けるため屋上に土嚢を2メートルの高さに積めと命令してきた。人手はないし困っていると、東京から疎開してきたとび職が、刑務所の囚人を頼むしかないという。刑務所は早速3,40人よこしてくれた。焼き付くような太陽がかんかん照っている灼熱の暑さの中で、その人たちは細い急な非常階段を4階の屋上まで砂袋を担いで往復する。砂袋は俵に砂を入れたもので、とても私では方まで上げるのにようやくという重いもので、それを何百袋も上げるのだから大変だった。(略)『これが地獄というものだ!』とこぼしながらトボトボと上がっていく。(略)何かやりたいと思っても何もない。小使室に話すと誰かがまだ食べられそうもない小さな青いリンゴをザルに一杯もって来てくれた。看守に見られないように『どう…』と差し出すとみんな有難い、有難いといってむさぼるように食べた」(引用終わり)
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最初は迷彩、次は建物強制疎開、それでは目立つから屋上に補強と、軍の命令は出たとこ勝負の行き当たりばったりです。そしてこの人手不足下、やれと命令するだけ。これでは人々の心も離反していくでしょう。敗戦はそれから間もなくのことですが、その砂袋がいつ撤去されたかも分かりません。ただ、手不足ですしじゃまにはならないから、すぐに取り除かれたわけではなかったでしょう。もしかしたら、それが迷彩の劣化を防ぐ役割を果たし、戦後の写真にくっきりと残ったのかもしれません。