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庶民のデマはだめで、軍のデマ発表は良いのかーガダルカナルの一木清直大佐

 アッツ島守備隊の玉砕について、伝書鳩により最後の様子が伝えられたというデマを流したとして7人が逮捕されたことを、一つ前の記事で触れましたが、では、張本人の軍は、どんな情報を流していたのか。大本営はどんな発表をしていたのかと問えば、遥かにそちらの方が悪質だったといえるでしょう。
 1942(昭和17)年8月以来のガダルカナル島を巡る戦いでは、数度に渡るソロモン海戦の大本営発表のほか、実は熾烈を極めていた陸戦の内容は全く発表されてきませんでした。ガダルカナルからの撤退を終えた直後の1943(昭和18)年2月9日、大本営は唐突にニューギニア方面の戦闘として「目的を達成せるに至り、2月上旬同島を撤し他に転進せしめられたり」と発表。そして表題写真の1943年3月10日の毎日新聞に中澤挺身隊が取り上げられているように、誇張された話題が戦意高揚で出されるばかりでした。「転進」が敗北による「撤退」だったことを国民に隠した大本営の責任は、小さなデマに比べ、いかに大きいデマで悪質だったか。
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 ガダルカナル島で最初に米軍へ反撃した一木清直大佐(長野県下伊那郡高森町出身)の戦いについては、関口高史氏が「誰が一木支隊を全滅させたのか」(芙蓉書房出版)で

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かなり詳しく解明してくれましたが、戦時中にはいかに伝えられたのでしょうか。丹念に信濃毎日新聞の古い紙面をたどっていったところ、1943年2月19日の朝刊にそれらしい記事を発見しました。
 ガダルカナルの争奪戦中は何一つ伝えず、撤収後、先の中澤挺身隊とか、戦死した兵士の闘志あふれる日記とか登場しますが、いずれも何か、超人的な活躍を示して読者を盛り上げるようなものばかり。今回みつけた記事も、同じようなものです。ぜひ、関口氏の本と読み比べることで、戦時下の戦争関連情報がいかにゆがめられ、国民が信じさせられてしまうか実感してもらえればと思います。以下、著作権切れを受けて転載します。記事の出どころは国によって統合させられてできた唯一の通信社「同盟通信」です。さすがに恥ずかしいのか「話題となっている」と逃げを打つような出だしが、記者の良心のかけらでしょうか。ただ、こうした記事でなければ検閲も通らなかったでしょうが。難しい漢字は適宜書き換え句読点を補ってあります。伏字はカッコ書きでできる限り補いました。

 鬼も泣け・この奮戦 西南太平洋尽忠録
 一文字山の猛将自刃 戦車群中に仁王立ち


 【西南太平洋〇〇基地17日発同盟】敵戦車群に肉弾突入を敢行して壮烈な戦死を遂げた支那事変勃発当時の一文字山の猛将〇〇(一木)部隊長らの勇壮極まりない物語りが今西南太平洋戦線に活躍する皇軍勇士達の間に話題となっている。
 月明こうこうたる〇月〇日(1942年8月18日)の夜、激浪を衝いて〇〇岬(タイボ岬)より〇〇島(ガダルカナル島)に敢然敵前上陸を敢行した〇〇部隊(一木部隊)は息つく間もなく〇〇河に沿って敵飛行場を一挙に奪取すべくジャングル続く峻嶮を強行踏破して瞬く間に敵背後に迫った。〇〇(一木)部隊長以下勇士達の決死の白襷が月光を浴びてくっきり浮かび上がり、銃剣の鋭い光が月明に底気味悪く光る。既に敵を呑んだ勇士達の面上凄い殺気が漲り、生い茂るジャングルの草薮をかき分け切り拓きじりじり一寸刻みに匍匐、敵陣寸前に肉薄していった、と敵は周到狼狽めくらめっぽうに機銃弾の十字火を浴びせてきた。高く低くぱっぱっと炸裂する敵の銃砲火が夜空に明々と燃え盛った。
 この時突撃の鋭い喚声が部隊長の口を衝いたと思った瞬間、勇士達の喚声は夜空を震わせて湧きあがった。飛行場内を右往左往逃げ惑う敵。その姿が敵の打ち上げた照明弾によって手に取るようにはっきり見える。「逃がしてなるものか」。我が勇士達はこれに向かって奔馬のような勢いで殺到、逃げ惑う敵を手当たり次第に掃討していった。やがて敵大軍は飛行場を放棄して雪崩を打って逃げ去った。やがて夜明けと共に我が勇士達は後方陣地を一気に蹂躙すべく突撃戦に移った。〇〇河の渡河点に殺到するや敵は一兵も逃がすなと〇〇(一木)部隊長の声は、雨あられと降り注ぐ敵火網の真っただ中に我が勇士達は切っ先をそろえて飛び込んでいった。胸を没する〇〇川の対岸に泳ぎ着いた時は、〇〇(一木)部隊長以下わずかに〇〇名しか残っていなかった。
 この時である。敵の大戦車群が十重二十重に鉄の要塞陣をしきながら殺到してくるではないか。轟々たる車両の地響きの中に「潔く死ね潔く死ね」と絶叫する悲壮な声が流れた瞬間、〇〇(一木)部隊長は部隊の先頭を切って血潮したたる軍刀を振りかざして迫りくる戦車群の真っただ中に躍り込んだ。「部隊長殿に遅れるな」とばかりに続いて勇士達が切り込んで行く。見る間に敵の一両が火を吐き、また一両が擱座した。戦車の銃眼に●って拳銃をぶっ放すもの、掩蓋に噛みついて軍刀を突き刺すもの、銃の台尻で乗員をたたきつけるもの…。兵達は血だるまのようになって戦車から戦車へと飛び移って敢闘を続ける。我が勇士達の獅子奮迅ぶりにさすがの敵も逃げ腰となったが、我を小勢と察知したのか、またも猛烈な反撃を続けてきた。敵重機が狂ったように唸るこの時、小癪にも右手の樹間に待ち伏せていた敵の歩兵部隊が側面射撃をやってきた。「万歳」「天皇陛下万歳」「無念だ」勇士達の絶叫が空間をつんざいて、一人、二人、五人と倒れていった。
 朝日がジャングルのこずえにさし始めるころには、〇〇(一木)部隊長以下わずかに数名となってしまった。部隊長の戒衣は敵の返り血と胸部と腹部に受けた敵弾により流れ出る血潮のため真っ赤に染まり、ずたずたに裂け、軍刀も今は刃こぼれでのこぎりのようになってしまった。しかも幾度か倒れてまた跳び起きて群がる敵を切り伏せるのであったが、幾百倍する敵は新手に新手を加えてじりじり押し迫ってくる。今まで部隊長のそばで激闘を続けていた〇〇軍曹もついに倒れてしまった。
 残るははや三名だ。唇をかみしめて仁王立ちに敵の真っただ中に突っ立った〇〇(一木)部隊長の瞳は火を吐くばかりに燃えているが、傷ついた身体はともすれば倒れかかっていく。無念と叫んでは倒れ、倒れてはまた起き上がっていくのに今はもう気力も全く尽きた。このままでは不覚にも敵の捕虜とならなければならぬ。最後の気力を絞って部隊長は敵戦車群が取り巻く真っただ中に端座し、はるかに皇居の方向を伏し拝み、天皇陛下万歳を唱え軍刀を取り直すや、従容として壮烈な自刃を遂げたのであった。

(転載終わり)

 正直、当時の新聞の戦場話は、このような感じで死を持ち上げ、ほぼフィクションに満ちたものとなっています。一部、実際の状況と合致するところはあるものの、生存者から裏付けを取ったり状況を冷静に分析したりといった、普通の取材をしたものではないことが明らかです。感情に任せて、死者を最大限にほめたたえるのが目的と言わざるを得ません。戦争中の情報統制とは、そうしたものかもしれません。
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 ただ、最近の問題は、当時のこうした空想話を本当の話と信じている現代人がいることです。現実の戦場に目をつぶり、ただただ「皇軍は強かった」と信じることの危うさ。戦争を知る人がほとんどいなくなった今ほど、冷静な戦時下の分析が求められる時代はないといえるのではないでしょうか。
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 なお、一木清直大佐の戦死は1943年7月27日に発表され、少将に進級しました。28日の信濃毎日新聞に、発表の記事がありました。「盧溝橋第一弾の勇将 南太平洋第一線で戦死」とあり、南方作戦で壮烈な戦死とだけ。長野県の遺族の談話や卒業記念の書き込みといった読み物が、わずかに人柄を伝えているばかりでした。
 実実に迫る情報を伝える気概。それを求める気持ち。これらがいかに大切か。今の世の中をしっかりみて、常に大切にしてほしいと思います。

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信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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