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日露戦争後、建造された「義勇艦」を知っているかーその後の国策の参考になった可能性も

 義勇艦というのは、平時は商船として活動し、戦時は海軍の補助艦艇として活動するというもの。ロシアの義勇艦隊や英国の船会社の制度に倣って、日本では日露戦争中の1904(明治37)年10月24日、帝国義勇艦隊建設趣旨要項が帝国海事協会総裁・威仁親王の令旨によって活動を始めました。
 こちらは同じ時にまとめられた建設の趣旨と要項、創設委員会規定などをまとめた書類で、翌年の1905(明治38)年4月に帝国海事協会が印刷したものです。建設の趣旨では「戦時補助船舶(義勇艦隊)を建造し、一面海軍力の扶植を図るとともに、一面、商船の不足を補って通商貿易の増進を図るは、将来多大の希望を有する我が日本が列国の大勢に後れざらんことを期するゆえんにあらずや」と狙いを書いています。

義勇艦隊建設の趣旨を伝える要項

 戦争中でいろいろ言って申し訳ないが、すこぶる重大なので協力をと。

建設の狙い

 裏面は帝国海事協会の定款です。協会の目的は「航海造船及海員の奨励其の他一般海事の発達竝に海上における生命財産の安全を図る」とあります。帝国義勇艦隊への寄付をすると金額によって本会員か賛助員になれるとしてあり、これらを区別するための徽章規定も設けました。

帝国海事協会定款
帝国海事協会定款
当時はこうした徽章類が重要だったようです

 そして、目標1,500万円の義捐金を集めるため、国内各地に協力者を設けていきます。こちら、長野県地方委員会のうち、東筑摩郡の委員を依頼する嘱託状で、日付は1905(明治38)年8月24日、日露戦争の講和会議が山場にさしかかっていたころでした。

義勇艦隊建設の委員嘱託状

 さて、こうして努力を重ねたものの、戦争が終わったこともあってか、当初目標にははるかに及ばない500万円ほどの義捐金に留まりました。仕方なく、この資金で建造できるだけのものをと計画を縮小。帝国海事協会は義勇艦さくら丸を建造します。

さくら丸の絵葉書

 さくら丸は1908(明治41)年に竣工し、翌年から神戸と台湾を結ぶ航路に配置されました。平時は旅客船として、戦時には大砲8門を装備し、快速を生かして偵察などにつく計画でした。設計では軍艦のように、船体側面に石炭庫を設けて防御力を高めていました。ただ、高速発揮の装備や軍用の備えなどが災いして旅客数が少なくなり採算が悪く、船体の動揺も大きいなど問題があり、やがて民間に売却されて貨物船になり、速力も低下。昭和初期に海難で喪失されています。
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 義勇艦はその後、うめが香丸が1909(明治42)年に完成し、貨客船として鉄道省の航路で活動しましたが、1912(明治45)年に停泊中、荒天で浸水し沈没、後に解体されました。最後の3艦目として、さかき丸が1913(大正2)年に竣工。満鉄の航路で運航し、第一次世界大戦では通報艦として従事し、唯一、当初の目的をかなえます。その後満鉄に売却され、1933(昭和8)年、解体されています。
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 正直なところ、戦時に備えるとなると貨客船としての積載量を犠牲にせざるを得ず、平時の商船としては中途半端で、扱いが難しかったのが実情でした。その後、政府は優秀な民間船舶の建造費を助成し、必要な時には徴用する「優秀船舶建造助成施設」という政策をとり、太平洋戦争では空母に改装するなどして活用しました。義勇艦隊は国民の義捐金頼みで頓挫しましたが、今度は国民の税金で賄ったことから、成功しています。義勇艦隊は頓挫しましたが、構想だけは引き継がれたのかもしれません。
 同時に、平時と戦時の両様に活躍できる船などないことも明瞭です。平時の備えだけで事足りるように普段から努力していくことが、国家の本来の責任でしょう。

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