戦争のため「家」を最大限利用する、国民精神総動員中央連盟
1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件に端を発した日中戦争(日支事変、支那事変)。停戦の模索もありましたが、当時の近衛文麿内閣は8月13日の第二次上海事変発生ー軍事予算を欲しかった海軍の謀略とされるーも受けて15日、「暴戻支那の膺懲」(暴れる中国を懲らしめる、という意味)をし、国民政府の反省を促すとして、全面的な戦闘を表明します。
既に国際連盟を脱退し、日本も加盟している不戦条約など世界の潮流に逆らって他国で戦闘行為を広げるなど、国際的に孤立している中では国内の支持が不可欠であり、臣民の動揺を抑えて戦争に意識を集中させるのが必要とみた政府は8月24日、閣議で「国民精神総動員運動」実施要項を決定します。そして10月11日、運動を実践する「国民精神総動員中央連盟」が全国の74団体で発足します。
その中央連盟が、1938(昭和13)1月の陸軍大臣による「長期戦対応の徹底的覚悟」を要求する訓示を受け、4月に発したのが「家は国の礎」と題した文書でした。家制度を利用し、家単位で意識をまとめさせる狙いです。
まず、家庭報国三綱領として、健全な家風の作興、適正な生活の実行、そして「皇民としての子女の養育」を挙げています。実はこの3番目が重要で、臣民は天皇のために存在する民であることの強調、そして「子女」とあるように、「家制度」で位置づけられた家長が統率して妻や子どもの意識を戦争向けにまとめよという意味合いがあります。天皇の下に臣民があり、臣民は家長の下に子女がいるという、上下関係の利用です。家で上下関係を明確にさせておくことが、社会、軍隊における上下関係に反映させやすいという狙いが明らかです。
以下、14の実践要目が述べられています。トップに来るのが「皇室の御安泰」を祈ること、2番目は祝祭日の国旗掲揚、3番目は「長幼の礼を正しく」となっています。これは、とにかく天皇の赤子であること、その上下関係を家の中ではっきり認識させることを重視していることの現れでしょう。
その後は、生活の細部に立ち入った指針です。4は貯金と国債の購入で、戦費捻出とインフレ抑制の狙いがあり、長期戦を視野にしたといえるでしょう。5から7は、服装や行事の簡素化、髪形など外来のものの排撃、そして勤労の推奨となります。特に髪形は男性の標準も作ったものの、もっぱら女性のパーマネントへの攻撃となって、子どもたちも大人をからかう口実にしています。内に敵を作り不満をそらさせる作戦という推測は、その後の経過から見ると当たっているように思えます。
以下、8から12は物資節約、火災防止と空襲対策、丈夫な子を育てること、心身の鍛錬、禁酒を挙げていて、物資節約に加え、いつでも役立てるような肉体の育成を求めます。最後の14はコメの節約ー軍需品であるーとしています。
そして13は隣近所の助け合いで、空襲火災などで協力して防衛と提唱します。これは大政翼賛会発足後、全国で隣組を整備することにつながっていく土台となっています。
まだ、この文書は基本的に呼び掛けであり、後年になるに従って強制的な雰囲気となっていきます。
◇
明治時代に整えられた家制度。それは美風でも伝統でもなく、天皇を頂点とする専制国家の統治上、都合が良いため導入された新しい制度です。特に現在はなくなってはいますが、当時は家長に権限が集約され、妻も家長の「持ち物」と同一視されています。その名残が、結婚すると男性の姓に女性が改姓することが圧倒的に多い現実でしょう。
一人ひとりが精神的に自立を図るため、対等の立場で生活していくため、こうした残滓を含め、常に皆で見直していくことが、国土を焦土とし他国に多大な迷惑をかけた政府に戻らない為にも必要なことではないでしょうか。
ここまで記事を読んでいただき、感謝します。責任を持って、正しい情報の提供を続けていきます。あなた様からサポートをしていただけますと、さらにこの発信を充実し、出版なども継続できます。よろしくお願いいたします。