戦時下、庶民の生活を最低限つなぐために生まれた食料品の配給制(有料)ー次々対象が広がり、市部では専用通帳も
日中戦争が1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに始まって以来、物資はすべて戦争優先となります。最初に革製品や金属製品、綿製品の民需の規制が始まりました。一方、輸入も戦時物資優先となるので、紙の原料のパルプは輸入がやせ細り、紙が政府によって統制され、割当制度になってどんどん情報を得る新聞や雑誌のページが減っていきます。
そんな中、主に農村からの徴兵が行われ、塩や化学肥料の生産が軍需に置き換えられることで、食糧の需要までもひっ迫することが明らかになってきます。そこで、次々と政府による統制と配給化が実施されます。配給といっても、あくまで「割当」であり、「有料」でした。無償で配布されたのは戦時災害保護法に基づく罹災者のみで、「配給」といえば「割当」であり、現金の必要な「有料」であったことは、明確にしておきます。
日中戦争から2年を経過した1939(昭和14)年あたりから、国内ストックが減少し、しだいに物資が窮屈になってきます。つまり、日本は「2年以上の戦争をする能力が無かった」ということが明らかになります。何しろ、中国に青年中心として100万人の兵隊を送り込んで養いつつ戦闘させるのですから。大変な負担です。
そこで、政府は同年、まずは米穀配給統制法を公布し、米穀商の許可制導入などで、コメの流通を制御し始めます。1940(昭和15)年6月からは大都市においてコメ、みそ、しょうゆ、塩、マッチ、砂糖、木炭など10品目の切符制による配給割当(有料)を実施し、11月からは全国に波及させます。
こちら、松本市で配布した「砂糖回数購入券」です。配給を受けるたびに左側についていたであろう引換券を切り取って渡したのでしょう。幸い、太平洋戦争開戦前の1941(昭和16)年5月ー10月分には、配給の欠配ー配給がとりやめられることーなく済んでいるようです。
こちらは長野県玉川村(現・茅野市)の家庭用味噌・醤油購入票で、みそは斜線で消してあるため、実質、醤油購入票です。
こうした配給割当は、家庭にとどまりません。商店や工場はもちろん、こちら、長野県上田市の防空防火組織「警防団」も、詰所で使うものでしょうか、木炭を割当票で支給されています。
戦争が進むと配給品目も拡大し、こうした個別の配給票では事務が煩雑になります。そこで、配給割当の回数券をまとめた「配給手帳」が作られることになります。こちらは松本市で作られた1944(昭和19)年10月から1945年3月までの1944年度下期のものです。毎月の家族人員の隣組長と町内会長による検印がしっかりおしてあり、統制が強化されている様子です。
こちらは、岡谷市役所が発行したものです。こちらは1944(昭和19)年度の1年間と長く使うため、受け取った家庭でカバーをかけてありました。
通常、主要食糧は別の配給手帳を作る場合が多いのですが、岡谷市役所はそちらも一体にして「生活必需物資購入通帳」としたようです。集成切符は、特別に記載のない品の配給(有料)があった場合に使用したとみられます。
砂糖は回数券を切って購入する方式でしたが、1945年2、3、4月分は使われておらず、配給がなかった可能性があります。
また、菓子の回数購入券は、最初から月が記入されておらず、既に定期的な配給割当(有料)が不可能になっていたことが分かります。そしてこの1年、1枚も使われていませんでした。つまり、配給がなかったと考えられます。砂糖も欠配するぐらいですし、このころは主食もコメだけでは賄えずサツマイモや粉類、甚だしいのは大豆かすが充てられていたぐらいですから、無理もありません。
そして、引っ越しなどの際は、転出の証明や配給をどこまで受けたかの証明などが必要になりました。新しい地で配給を受けるための調節でしたが、届はできてもモノがそこまで柔軟に動くのは難しかったのではないでしょうか。
ここまで臣民の生活を犠牲にし、それでも戦争だけは続けていたのです。こうした窮乏生活下にあった人までも根こそぎ赤紙召集されていくのですから、もはや本土決戦の兵力たりえなかったでしょう。それでも、戦争は続く。臣民が臣民の殻を打ち破らない限り。
戦争を起こさせないことがいかに大事か。これらの通帳は、それを物語っているように思います。
関連記事 主要食糧の配給制度(有料)を見てみよう
1942年2月導入の衣料切符制度とは
物資配給組織は整備してもモノが増えるわけではない