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「小林多喜二の拷問死は嘘」ーそこまで権力無謬性を妄信するのか。ならば、その時代背景の一端を伝えよう。

 2024年からみて91年前の1933(昭和8)年2月20日正午ごろ、プロレタリア作家の小林多喜二が築地署の特高課員に逮捕されます。そしてその日、午後7時45分に死亡し、その夜のうちに遺体は自宅に戻されました。「内出血で紫褐色に膨れ上がった両方の股(もも)、これも靴で蹴り上げられた痣のある睾丸、焼き火箸を突き刺したらしい二の腕とこめかみの赤茶けた凹み。ー警察は心臓麻痺だといいはり、あらゆる手を使って司法解剖を妨害した」(講談社・昭和2万日の記録、千田是也「もうひとつの新劇史ー千田是也自伝」より)とあります。
 逮捕から半日で突然心臓麻痺になったことを警察側で検視し、遺族はそれを受け取ったのだから拷問死ではないーという発想の幼稚さにも、執拗にそうした発言を繰り返す権力に対する絶対の信頼性と何かへの憎悪にも似た発言に驚くほかなく、つぶやいたのが、表題写真のX(旧ツイッター)です。

 「お前が小林多喜二か! お前の書いた通りにしたるわ!」
 かつて、NHKが小林多喜二や特高のことを描いたテレビ番組でのセリフです。小さい時ですが、はっきり覚えています。指に鉛筆を挟む拷問方法を紹介していた場面もあり、特高警察にいた人が指導をしていたのでしょう。

 「書いた通り」というのは、全国で1928(昭和3)年3月15日から行われた共産党や労働組合幹部の一斉検挙の様子を関係者に取材して書いた「1928年3月15日」にある、警察の拷問方法の数々です。首を絞めて気絶させ、水をかけて息を吹き返させてはまた首を絞めるを繰り返し、ふらふらにしたところで供述を得ようとしたり、はだしの足のかかと付近を後ろから蹴りながら歩かせたり。千枚通しで股をさされ、痛みに耐えかね「殺せー!殺せー!」と拘束者が叫ぶ。そして強引に調書が作られていくのです。
 小林多喜二の虐殺と同じころ、1933年2月4日から摘発が始まり、教員赤化事件として知られる2・4事件の検挙者に対する取り調べでも「二日間、殴られ、けられ、竹刀で叩かれ、体の3分の1が内出血してしまった」「足の間に棒を入れて、座らせ、靴で股をガンガンける」などと拷問の証言が載っています(「信州昭和史の空白」より)。

 話を少し戻し、1923年の関東大震災のおり、特高課出身の亀戸署長はかねてから目を付けていた社会主義者やたまたま居合わせた人を検束。そして9月5日午前3時ごろ、付近の警備にあたっていた騎兵第13連隊の将兵に10人を刺殺(関東大震災政府陸海軍関係史料第2巻 陸軍関係史料より)させます。しかし、遺族が消息を尋ねに来ても亀戸署側はしらを切り、その間に焼却。扇動したので殺害したと打ち明けると、死体を引き取るというので、その前日のうちに焼け焦げ死体を別の場所に移して「いろんな人と焼いたので、だれのかわからないのでもよければ」というなど、隠蔽を図って慎重にことを進めたのです。
 しかし、1925(大正14)年4月22日、治安維持法が公布され、さらに1928年、緊急勅令で最高刑を死刑にする改悪がなされて翌年に議会を通過。治安維持法の適用範囲も広がりました。また、結社をしようとしていると警察が判断しただけでも逮捕できるように。1928年7月には全府県に特高警察課を配置するなど、組織も拡大しています。
 こうなると、気づかいをすることもなかったのでしょう。明らかな拷問の跡がある死体をその日のうちに家族に渡し、知人や友人らも遺骸を迎えているのですから。千田是也の言葉にも司法解剖が妨害されたとあり、警察が病院に圧力をかけたり、かかわりを医師が恐れたのは容易に想像が付きます。もし司法解剖が行われたとしても、今度は告訴を引き受ける弁護士がいるのか。そして国を訴えるという行為が周辺にどんな影響を与えるか。もはや泣き寝入りするしかなかったでしょう。

1929年6月号の戦旗

 小林多喜二が名作「蟹工船」後編を載せた雑誌「戦旗」の1929(昭和4)年6月号は、直ちに発売禁止となります。が、その戦旗には、長野県上諏訪町(現・諏訪市)での無産者の選挙戦の記事が載っていました。

代表作「蟹工船」後編
下諏訪町町議選での無産者の選挙戦報告
次々と演説も止められる

 警察の弾圧が激しく、支援者が次々と拘束されて責任者と候補者の2人だけとなり、演説会もまともに開けない中、無産町民の支援を受けて当選したと。このころだけでも、ここまで警察の圧力がかかっています。
 下写真は小林多喜二が殺されたのと同じころ、長野県の全国農民組合長野県連合会が、町村議会の選挙に向けてまとめた方針書です。

ガリ版刷りの方針書
政策とスローガンがびっしりと

 ずらりと並んだ政策とスローガンのトップは「言論、集会、出版、結社の自由」。二番目に「治安維持法など一切の労働者・農民抑圧法令の撤廃」を掲げています。いかに、当時の権力者に対抗していくのが大変だったかを、この2つの政策が如実に表しています。小林多喜二のことには触れられておらず、そのほんの僅か前に作られたものであり、当時の日本が、権力の厳しい監視と圧力にさらされていたことを、この資料は示してくれます。こうした時代であったことを無視して、勢力を増した特高警察の力を無視して、ただの心臓麻痺で告訴していないのが「拷問死ではない」証拠などと言えたものではありません。
 幸い、圧倒的に多くの方が賛同するリプを下さり、いいねを多数いただくなど、まだまだこんな戯言は受け入れられる余地がないと安心できました。しかし、これから先もどうなっていくか。そんな思いを込めて、ここに記録としてはっきり書いておきます。
 「小林多喜二の拷問死は明らか。権力者は絶対正しいということはありえない」と。

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