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「等負荷であれば鉄筋なしの掩体ができる」を地で行った松本市の半地下工場ー大学講師から聞いた体験談とともに紹介

 太平洋戦争末期の1945年2月から、空襲を避けて飛行機の生産を続けるため、三菱重工業株式会社名古屋製作所第一製作所の長野県松本市への疎開が始まり、6月には市内と周辺の主な場所で、計画に対し事務部門100%、技術部門80%、工作部門30%の作業がようやく始まっていました。

 これと並行して、同工場をさらに安全な場所に再疎開させる目的で、陸軍主導で熊谷組を元受けとして、近隣の中山村、里山辺村(いずれも現・松本市)を中心に、地上建造物、半地下建造物、地下工場の建設が4月から敗戦まで続きました。建設資材の確保状況は8月15日に至っても木材7・6%、セメント18%にすぎませんでした。それでも終戦時には地上建物20%がほぼできあがり12%が使用可能、半地下工場43・3%ができ36・5%が使用可能となり、地下工場は64・9%の進捗でしたが使用可能は0%としています。(以上、「松本市における戦時下軍事工場の外国人労働実態調査報告書」より)。

 このうち、地面を掘り下げかまぼこ型の建物(柱なし)をつくり、後から土をかぶせて木を植え偽装させる「半地下工場」は177棟の計画中、幅8m、長さ20m、高さ4mの「A棟」が65棟、幅・長さとも20m、高さ6mの「D棟」が1棟、幅20m、長さ30m、高さ6mの「C棟」1棟の、合わせて67棟が完成したとしています。この各棟は、土台にコンクリートを使ったものの、かまぼこ状の梁と板だけで建物が作られていました。内部は柱がありませんでした。

「同報告書」より。C棟。正面に木の枝がつるされている。

 このように大きな建物が、柱をつかわず、木製の梁のみでつくれるかどうか。同報告書によると「当時、日本大学工学部の学生で、半地下工場の建築のため動員されてきたKK氏の回想によれば、半地下式木造の建物は、O教授の『構造設計のもので我々は松本へ行く前に直接教授から、構造・施行についての講義を受けて出掛けた。当時としては建築材料も少なく(略)最小限の材料で設計しているから、骨組を組み立ててから土を被せるには、片荷とならないように、両側より対称に進めなければならない絶対要件を持っていた(以下略)』」とあります。
 なぜ、片側に重さがかからないよう、両側を均等に土を被せなければならないか。報告書でこの部分を読んだ時、中の人は大学時代の集中講義で音刷れてくれた気象大学校の教授から聞いた話と同じだ、と思いました。その話は、以下のようなものでした。
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 教授は戦時下の学生当時、技術者として飛行場で飛行機を隠す掩体の設計を命じられますが、その時の上官の問いが「鉄筋なしでコンクリートのみで掩体を作ることは可能か」というものでした。教授は「等負荷であれば可能です」と答えます。かまぼこ型の建築物全体が支え合って釣り合って居れば大丈夫ということです。参考までに、下に中の人の手書き図をお示しします。

下の線が地面、かまぼこ型の線が建物の断面、矢印が各部分の力の押し具合

 図の矢印は、かまぼこ型の建物にかかる力を示しています。建物は自重によって下向きに力が働くだけではなく、地面からその重量を押し返す反発力もかかっているのです。地面に近いところでは全体の反発力の方が大きいので、差し引きで上向きの力が働きます。これが地面から離れるに従い小さくなり、ある点を境に下向きの力の方が差し引きで大きくなるようになります。この上向きの力と下向きの力の大きさが建物全体で同じであれば、建物は安定するのです。力の向きの先端をたどった曲線が「負荷曲線」で、この負荷曲線の状態が良ければ、鉄筋などの補助材を使わなくても大丈夫というわけで、そのように設計します。
 さて、教授は設計通りの断面になるよう、多数の棒で型枠を支え、コンクリートを流し込んで固めさせます。ここまでは良かったのですが、支え棒を外すとその部分だけ他の場所と負荷が変わってしまい、バランスが崩れます。そこで、大勢の人を集め、すべての支え棒に配置し、笛の合図で少しづつ緩め、最後に一斉に外して見事完成させました。
 そして2棟目の製造に入りましたが、現場はこんな面倒はやっていられない、ということで、支え棒を外す段階で、勝手に端からどんどん外していきました。すると「ドーン!」とすさまじい音。教授が飛びだして見に行くと、なんとか建物は耐えていましたが、かまぼこの裾部分が外側にずれ、負荷曲線の建物との交点に沿ってきれいに割れ目が入っていたということです。新たにバランスをとれたのでしょうが、もう使い物にはなりませんでした。
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 つまり、学生の証言にあった、両側から対称に負荷をかける必要性とは、まさにこの「等負荷」を守るためでした。報告書の先ほどの証言の続きでも、甲府近郊で、そうした偏りによる倒壊事故があり、中国人捕虜に事故者が出て問題になったとの話が出ています。
 松本の半地下工場の設計はO教授のものではありませんが、松本で設計した池田三四郎氏も甲府近郊の飛行場で起きた格納庫の倒壊事件を知っていたので、同様の考え方をしていたようです。実際、松本の工事でも石積みが偏って壊れた事例がありました。下写真を見ると、向かって右側に負荷がかかり、建物の右側がゆがんで地面から浮き上がっている様子が分かります。

同報告書掲載写真より。事故を起こした建物。池田三四郎氏撮影

 なお、こうした工事が行われたことなど、歴史を後世に伝えるため、松本市は松本市中央図書館と松本市文書館に「まつもと平和ミュージアム」の「平和資料コーナー」を設けています。中の人は2018年に中央図書館の「平和資料コーナー」を訪れ、そこに置いてあったこれらの工事の関連品を見てきました。展示は随時入れ替わっていますが、写真撮影は図書館であれば2階受付に申し出れば可能となっています。

当時、ちょうど里山辺・中山の工事関連の展示をしていました
最初に示した写真の半地下工場を再現した模型も
工事で使った工具類もありました。

 物資のない中で、ぎりぎりの状態で工事が進められたことは、こうした事例からも分かってきます。そして、ぎりぎりをさせられたのは、現場の朝鮮人。中国人も同様でした。

 「里山辺朝鮮人・中国人強制労働調査団」の1995年の「訪中調査報告書」によりますと、1945年7月から松本で働かされた中国人捕虜・于宋起さんは「大きなトタン板2枚を三角形のテント型」にした三角兵舎に寝起きし、食事は3回だが「朝晩、このくらい(直径8-10cm)の蒸しパンのようなものを1つずつ、お昼は2つでした。材料はトウモロコシと大豆の搾りかすと米ヌカの3種類を混ぜたものでした。でも、のどを通らないような代物でした。臭くて苦くて辛くて、それでも一生懸命食べたら、胃袋が痛くなって焼かれたような感じがしました」「おかずは少し出ました。白菜を少し、芋、ゴボウ、大根2枚が出るときもありましたが、量は少なく一口くらいでした」と証言しています。

 当時、既に国内の配給制度も破綻していて、配給量の減少、そしてコメではなく大豆かすが配給(有料)されることもしばしばでした。その無理を、重労働をする人たちにも、それ以上に押し付けていたのです。戦争を止めるシステムがない、日本の、誰が責任を持つのか分からないような戦争指導のしわ寄せが、こうした現場につながっていくのです。戦争はこうした理不尽さをあちこちにばらまくこと。そう思えば、それを避ける道を歩むしかないはずです。そのためにも、過去に学ぶことが大切ではないかと、あらためて思うのです。

 

 


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信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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